マインドコントロールされた人々
そもそも、肝心の毛沢東時代においても、農村戸籍所持者の位置づけは極めて低いものであった。いや、今日の農村戸籍所持者をめぐる問題は、計画経済の時代に生み出された社会構造をそのまま継承した結果であるとすら言える。毛沢東が蒋介石と国民党を追い払い中華人民共和国を建国した当時、長年の混乱に陥っていた中国は「一窮二白(貧乏で何もない)」な状態であった。しかも、朝鮮戦争に義勇軍を出兵して多大な犠牲を払ったにもかかわらず、ソ連から十分な援助を得られたわけでもなかった。こうした中で米国との(そして50年代末以降はソ連とも)核戦争の危機に備えて国力を蓄えるならば、結局のところ農民を徹底的に管理することで、彼らが生み出した農作物の価値のほとんどを国家に留保し、それを元手に工業を興すしかない(マルクス主義経済学で原始的蓄積という)。しかしそれだけでは、農民は働いても報われず窮乏して反乱を起こすしか行き場がなく、それではゼロから興す計画経済は成り立たない。そこで必要とされたのは、喜んで窮乏生活に甘んじつつ生産への意欲を持続するという「都合の良い農民」であり、それは一般的な人間的欲求を捨てるようマインドコントロールされた農奴と同義である。
国家農奴制がたどった悲劇
そのために毛沢東が用意したものこそ、農村社会における階級闘争という名の劇薬である。贅沢は悪であり、毛主席の教えに従って貧しさに甘んじ、生産を党と国家のために捧げ奮闘することこそ革命的で善である。このような論理を、もともと共同体が脆弱で個別の農家のフリーハンドが大きい中国の農村社会(小農社会)に持ち込まれた結果、ある倒錯した事態が生じた。すなわち、自ら汗水流して得た富を地道に蓄え拡大再生産に励む自作農は「反動」な「富農」であり、経営能力が低く借財を重ねて転落してきた貧農・小作農・ごろつきは「革命的」だということになる。そこで毛沢東の支配のもとでは、優秀な自作農がことごとく「階級の敵」として殺害された。そして国家による計画=厳格な収奪のもと、配給は微々たるものにとどまり、しかも「平等」の名の下ではどれだけ働いてもみな同じ配給である以上、真面目に働くことは無意味になり、あらゆる創意工夫の契機が失われていった。その代わりに、階級闘争において大胆に敵を打倒することで「革命性」や「刻苦奮闘」が表現され、さらには「革命的」に振る舞わなければ即座に「反動」扱いされるというヒステリー的な社会構造が蔓延した。これが合作社・人民公社制度に象徴される毛沢東時代の集団化の真相であり、国家農奴制がたどった悲劇である。
さらに文革中、都市のエリートは「農民に再教育を受ける」という大義名分のもと農村に追放され(下放)、「階級的に上位な」農民からの陰惨な攻撃に遭遇した。これはある意味で、「毛沢東の農奴」に陥れられた人間たちによる都市戸籍所持者への報復であった。そして、悲惨な農村体験をした都市戸籍所持者が、改革開放以後今度は農民や出稼ぎ労働者に対して極めて冷たい態度をとりつづけている。
もしもあなたが都市戸籍所持者でなかったら……
こうして、毛沢東の国家農奴制は中国社会に救いがたい溝を生み出した。今日も農村戸籍所持者は、単に「都市戸籍でない」というだけの理由で、賃金・福利厚生・居住・子弟の教育面で劣悪な条件しか与えられず、彼らが生み出した利益のほとんどは都市戸籍所持者が享受していることに変わりはない。国家が土地と人民を厳格に管理することで成り立つ毛沢東の錬金術は、市場経済とかたちを変えても未だに生きているのである。
農民は都市住民に冷遇されることが分かっていても、余剰人口にあえぐ故郷で生きて行くことはできず、劣悪な条件に耐えて故郷に錦を飾ることを夢見ざるを得ない。旧正月明けごとに殺人的な混雑の列車から大都会に吐き出された農民は、まさに『女工哀史』さながらに過酷な労働に従事し、使い捨て同然の境遇に置かれてきた。