日本の核融合の研究は1958年くらいから始まりましたが、京大はその草分けのひとつ。湯川秀樹さんや伏見康治さんなどが、はやくから核兵器になる心配のない核融合を日本がやるべきだと言って始めたんです。核融合の研究については、いまでも日本はトップクラスにありますよ。ちなみに、私が生まれたのは日本で原子力基本法が制定された年です。
●なんだか象徴的ですね。先生が原子力を意識したのはいつなんですか?
——小学校の頃から鉄腕アトムを見て育ちましたから、そのへんでしょうか。石油ショックも大きかったですね。高校の頃、紙不足で少年サンデーやマガジンがペラペラに薄くなってショックをうけたのを覚えています。これは大変だ、エネルギー問題はなんとかしないといけないという意識はそのときに持ったんだと思います。それがきっかけで研究を考えたわけじゃなくて、実際は大学なんて行ければどこでもよかったんですけど。
学部で研究したのは太陽電池でした。光触媒の藤嶋昭先生の研究室で、二酸化炭素を太陽光で燃料にする研究をやりました。いまと通ずるところがありますかね。光合成と同じことを試験管でやろうとしたんです。アルコールやメタンができるかなと思ったけど、なにしろ効率が悪すぎた。生きている間には実用にできそうもないと思って、大学院に進む際に核融合に移りました。核融合ではトップクラスの内田先生、井上先生の研究室で、これもラッキーでした。
修士を終えて、その後は原子力研究所。核融合で燃料にするトリチウム(三重水素)を扱う研究でした。重水素はふつうの水にも入っているものですが、トリチウムは人間が作らないとできないもので、かつ放射性なので、扱いが難しいんです。
その後、炉やシステムの設計、ITERの研究とかやるうちに興味が広がり、環境やエネルギーシステムとかも気にするようになった。世の中が必要とするエネルギーを作るのなら核融合をつかうべきだけど、それほど必要とされないならやってもしょうがない、と思うようになりました。先にユーザーサイドや環境サイドのほうを考えるようになって、いまのやり方にたどりついた感じ。
だんだんと、なんのために核融合をやるのかを説明しなければいけない気になったんですね。周りからも要求されるようになった。それは誰かがやらないといけないことでしたからね。
●先生のお父さんも科学者なんですか?
——いえ、それがマンガ編集者だったんです。「少年サンデー」の編集長や「ビッグコミック」の創刊編集長を務めたのがうちの父です。だからマンガは小さい頃からよく読んでいましたね。
7歳のときにアトムの白黒アニメが始まったけど、あの頃はみんな科学少年でしたよ。手作りで望遠鏡つくったり、虫をつかまえたり。小さい頃は、科学者にも宇宙飛行士にもなりたかった。この前、山崎直子さんが乗ったスペースシャトル打ち上げは、実際に見に行きました。でも、どちらかというと、メカとか数学というよりは、畑ほじくったり木を切ったりが好きでした。東京・中野生まれですが、まわりに空き地や畑がまだいっぱいありましたもん。
科学者に科学をまかせていたらろくなものはできないと思うんですよ。世の中の普通の人の感覚とか文系の感覚とかがないと。原子力でも、人が怖いと思うものはやっぱり怖いし、不安なものは不安なんです。わかってもらえないのは、説明が間違っているし、考え方も間違っている。理系人間が理系のロジックで説明するのは本当じゃないなと思います。たとえばゴミ焼却の話みたいに、普通の人の感覚が反映されやすいテーマに、原子力のようなビッグサイエンスのほうを合わせていく感覚を私は持っていたいと思います。
◎略歴
■小西哲之〔こにし・さとし〕京都大学エネルギー理工学研究所教授。1956年生まれ。81 年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了後、日本原子力研究所において核融合工学研究、ITER(国際熱核融合実験炉)プロジェクト等に従事し、2003年から現職。08 年より生存基盤科学研究ユニット長を兼任。