2024年7月16日(火)

サイバー空間の権力論

2017年4月27日

円滑なコミュニケーションが孕む完全化の盲点

 BMI/BCI技術が本当に実用化できるのか、と疑問を持つ読者もいるだろう。確かにニューラリンクに対して簡単に実用化は無理だといった異論もあり、Facebookの発表にも共通するものだろう。技術の詳細は明かされていないが、BMI/BCIの研究蓄積から考察するに、ことは簡単に進むかどうか、筆者も疑問はある。

 とはいえ、昨今の人工知能研究など急速に発展する技術革新の中で、技術を社会がどのように受容するか、そのための社会倫理を構築する必要がある。であれば、テレパシーのような超能力に類する技術であっても、可能性がある問題に対して、現段階から思考実験をすることには意味があると考えられる。

 では、これらの技術は我々を幸福に導くのだろうか。上述の通り当然のことながら、医療などで求められるものもあれば、軍事利用などでは慎重に議論すべきものなど、ケースバイケースで考えなければならない。だが仮にBMI/BCIを通してますますコミュニケーションが円滑化され、深層心理まで無言で共有できる未来が誕生するとすれば、それは誤解のない「透明なコミュニケーション」が達成されることを意味する。人々がすべてすれ違うことなく意味を理解できるなら、争いのない未来が到来するのかもしれない。

 しかし、それは同時に個体としての「私」の喪失を意味するのではないか。個体としての「私」を前提に発展してきた近代社会において、人の思考がすべて共有される社会とは、プライバシーのない、しかしすべての思考がひとつに接続された社会である。それは果たして人類の発展を促すのだろうか。

 これは極端な例だが、問題提起の意味を込めて、次の小説を紹介したい。

 イギリスのSF小説家アーサー・C・クラーク(1917〜2008年)が1953年に出版した『幼年期の終わり』は、こうした問題を考える上で重要な論点を与える。極力簡単にストーリーを説明すると、まず突如到来した宇宙人によって全人類の文明が向上する。その後ある日を境に生まれる子どもが皆超能力に目覚め、テレパシーで宇宙人や子どもたちと意識を共有し、大人を拒絶する。そして、テレパシーといった超能力をもつ子どもたちは宇宙人の元へ旅立ち、残された人類は破局を迎えるという話だ。本稿の趣旨にひきつければ、BMI/BCIがテレパシーを可能にした社会は、果たして幸せなのか、という論点を導く。

 すべての思考が接続された社会は、完全性を達成し、精神の成長もなく、良くも悪くも生物としての役目を終えるというストーリー。すれ違いや不完全さは人類にとって災いであると同時に、向上心をもたらす希望でもある。ここまでの技術がすぐさま登場することはもちろん現状ではあり得ないが、BMIやBCIは人々のコミュニケーションにどのような影響をもたらし得るか。技術に関わる議論をますます加速させる必要があると思われる。

  
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