天の海に雲の波立ち
月の舟星の林にぎ隠る見ゆ
(柿本人麻呂歌集 巻七—一〇六八)
この歌に出会った時、私は物理学の大学院にいた。
小学校五年生の時、天才物理学者アインシュタインの伝記を読んだ。それで、将来は時空の概念を革命するのだと決めてしまった。
科学をやるということは、つまりはグローバリズムの嵐に身をさらすということである。青年の頃は生意気だったから、日本の文化なぞ捨ててしまえ、といていた。これからは全部英語でやるんだと思った。洋書を読んでいる方が、何となく高級な感じがした。
そんな時に、不意打ちのように万葉集のこの歌が目の前に現れた。教えてくれたのは、源氏物語を研究している若い学者さん。彼女が「万葉集にはこんな歌があるんだけれども」とさらさらと記したその文字列に、私は釘付けとなった。
万葉集が編纂された太古の日本で、空はもっと大きく清澄であったに違いない。地上に空見を邪魔するような人工の光もない。人々は重大なる関心をもって、天蓋の有り様を眺めていたことだろう。
万葉集にはいろいろな歌がある。この歌が私の脳裏に強烈に焼き付けられたのは、その宇宙的イメージの広がりはもちろんだけれども、しゃかりきになっている私の背後から、言の葉たちがやさしく包み込むように忍び寄ったという、その人生の機微に依るところも大きいように感じる。
天皇や貴族から、無名のまで。数多くの人たちが歌を寄せた万葉集が、日本が誇る大切な文化遺産であることは言うまでもない。その恵みが一人ひとりの人生にどのように届くかということには、それこそ幾千万の変化があるのであろう。
この歌に出会ってからしばらくして、私は研究対象を脳に転じた。やがて、意識の中で感じられるクオリア(質感)というライフワークに出会う。
クオリアはもちろん科学上の研究テーマであるが、そこに至る私の生の道筋には万葉以来の日本の細やかな心遣いの伝統が流れ込んでいる。極言すれば、日本人にとってのクオリアと、アメリカ人にとってのクオリアは違う。それが、同じ「科学」という普遍言語で結ばれることに醍醐味がある。
人麻呂のこの名歌にも、翻訳しても通じる部分と、やはり日本語で味わうしかない部分の両方が混ざっているように思う。