発掘調査は、地下に眠っている過去の人々の活動の痕跡を正確に検出する作業だ。私達はそうした発掘の成果に基づき理論や意見の正しさの立証を目指す。考古学はそんな実証の学問だが、発掘された遺物が極尽の出汁となって、人間に素晴らしい味が染みこむこともあるのだ。“発掘された木簡から万葉に想いを馳せる”などいい例だ。こんな感情が湧いてきたら、考古学をひとやすみして感性の旅をしてみたくなる。
2008年10月22日、京都府埋蔵文化財調査研究センターの発表として、木津川市の馬場南遺跡から「万葉歌の墨書き木簡」の一部が出土したと報じられた。木簡に残る万葉仮名11文字は「阿支波支乃之多波毛美智」。これは、次の歌の冒頭にあたる。
秋萩〔あきはぎ〕の下葉〔したば〕もみちぬ
あらたまの月の経〔へ〕ゆけば風はやみかも
(巻10-2205)
萩の下の葉が色づいてきた。月が経っていくにつれて風がはげしく吹くからであろうか。
「黄葉〔もみち〕を詠む」41首のうちのひとつだ。
翌年の8月15日に向日〔むこう〕市で開かれた埋蔵文化財セミナーで、その木簡の裏面には「越中守」の文字が書かれていた可能性の高いことが指摘された。木簡の年代は一緒に出土した遺物の精査から740~70年で、万葉集成立期にほぼ重なる。万葉集を編纂したとされる人物は大伴家持〔おおとものやかもち〕。彼はこの木簡が発見された木津川市の恭仁京〔くにきょう〕(740~44年)で40首程の歌を残している。しかも746~51年の5年間「越中守」として赴任しているではないか。この時期、彼の歌は恋愛中心から自然対象へと変化し、歌風の一大転期を迎えている。都に戻った752~57年の間、難波にて防人歌〔さきもりのうた〕の収集をしたとされる。
こうなると出土した万葉木簡と家持を結び付けたくなる。しかし、その後の彼の足取りからは、出土した万葉木簡と家持の関係を立証するのは極めて困難だ。おっと、考古学はひとやすみ、ここは空想を楽しんでおこう。
さて、今は萩に秋声を聞き、萱〔かや〕の穂に季節の移ろいを見る時節だ。万葉集巻8に笠金村〔かさのかなむら〕のこんな歌がある。
伊香山〔いかごやま〕野辺に咲きたる萩見れば
君が家なる尾花し思ほゆ
(巻8-1533)
伊香山の野辺に咲いている萩を見ると、あなたの家にある尾花がしきりと思われます。
伊香山は滋賀県の賤〔しず〕ヶ岳らしい。秋の七草に心を映して、都の家や友・思い人を偲んだのだろうか。
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