オトナの教養 週末の一冊

2017年12月8日

»著者プロフィール
著者
閉じる

本多カツヒロ (ほんだ・かつひろ)

ライター

1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。ブログ:http://golazo-sala.cocolog-nifty.com/pinga/

――そこで、「昭和史論争」や「大正デモクラシー」「明治百年」を分析対象にしたと。

鈴木:その3つを選んだのは、戦後という線分のなかで、元号が際立って注目された事例だからです。「戦後と対比する昭和」「戦後と似ていたとされた大正」そして「戦後の起源としての明治」という3つの類型を私は『「元号」と戦後日本』の中で提示しました。

――上記の3つについて、あらためて説明していただけますか?

鈴木:まず「昭和史論争」とは、1955年に出版された『昭和史』(岩波新書)がベストセラーとなったことに端を発します。同書の著者たちは、簡単にいえば「戦前」=「昭和」=悪、と切り捨てました。

 この論争が起きた1956年は、経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となりました。それまでとらわれていた「戦後」に区切りをつける絶好のタイミングとなりました。それまでの戦後を切り捨てて、高度経済成長期へと向かう国民の支持があったのです。そこで「戦後と対比する昭和」が成り立ちました。

――社会の授業でも習った「大正デモクラシー」とは。

鈴木:確かに私の世代では教科書にも登場した言葉ですが、現在、歴史学からは疑義が呈され、あまり使われないようです。

 この言葉が広まった背景には、1960年代から70年代に危機に瀕していた日本の戦後民主主義への警鐘であり、戦後への新しい希望があります。つまり、この言葉を擁護する論者たちは、戦後民主主義に類似する潮流を、大正時代に見出したのです。

――「明治百年」とは。

鈴木:先に「戦後の起源としての明治」と言いました。戦後復興の中心人物は明治後期生まれが多かったのです。彼らの幼少期の記憶にある輝かしい明治時代を、戦後復興に重ね合わせようとしていました。その意味で、戦後の原型・プロトタイプを明治に見ようとする指導者が多くいました。もちろんその筆頭は、明治34年(1901年)生まれの昭和天皇です。

 そして、その重ね合わせが最も際立って現れたのが、戦後20年が過ぎたころ、つまり、1968年(昭和43年)の「明治百年」をめぐる一連の政府主導のイベントです。

 これは国家的プロジェクトとして計画され、日本政府主催の式典が1968年10月23日に日本武道館で開催されました。

 もともと元号とは、古代・中国の前漢武帝に始まります。皇帝が、領土だけではなく、時間をも支配するという考えに基づき、紀元前140年の建元から始まりました。そして、西暦で言えば645年の大化から平成まで247に及ぶ元号が制度として続いているのは、日本だけです。

 明治時代から一世一代となり、元号は天皇の在位期間と一致するようになった。そして、大日本帝国憲法(明治憲法)下では、元号について、皇室典範などの法令によって定めていました。しかし、戦後になると元号を定める法令がなくなりました。その後、いくつかの議論を経て、1979年に元号法が成立し、戦後34年目にしてようやく、法的根拠を得ることになりました。

関連記事

新着記事

»もっと見る