政治的な側面ばかりが注目されている平昌五輪が2月9日に開幕した。現在の日本で冬季オリンピックの花形種目といえばフィギュアスケートだろう。今回も宇野昌磨選手、宮原知子選手など注目選手は多いが、とりわけ耳目を集めるのが羽生結弦選手だろう。
しかし「フィギュアスケートは敷居が高い」「採点や見方がよくわからない」という声もよく聞く。そんな方たちのために『羽生結弦は助走をしない』(集英社)を上梓したフィギュアスケート観戦歴38年のエッセイスト、高山真氏に「フィギュアスケートの見方」について話を聞いた。
――06年のトリノオリンピックで、荒川静香さんのイナバウアーをテレビで観て、美しいなと思ったことはあるのですが、それ以降フィギュアスケートを観ようと思っても用語がよくわからなかったりと、正直言うと見方がよくわかりません。そういう方って意外と多いと思うんです。
高山:見方というある種の「作法」は気にせずに、まずは平昌五輪のフィギュアスケートを観てみれば、これまでのスポーツ観戦では味わったことのない興奮や血の騒ぎ方、喜び方が自分の中にあることを発見するかもしれません。こういう本を書いておきながらなんですが、見方という作法よりも、そういった感覚的なことのほうが大事なのではないかと考えています。
また、この本に書いたことは、あくまでも長年フィギュアを観ている私のツボであって、書いたことが必ずしも正解というわけではありません。正解は、人の数だけあっていい。
たとえば、ゴルフが好きな人の中でも、胃がキリキリするような短いパットに興奮する人もいれば、胸がすくようなロングショットに興奮する人もいますよね。同じくフィギュアに関しても、ツボは人それぞれ違いますから。
――それでは高山さんのツボとは?
高山:フィギュアスケートのそもそもの成り立ちは「氷の上に図形(フィギュア)を描くこと」です。
ジャンプは人目を引きますし、得点配分がいちばん高いのもジャンプではありますが、基本はスケート靴の刃がいかに複雑に、そしてスピーディーかつスムーズに動いて図形を描き続けるかだと思います。私のツボもまさにそこにあるんです。