2024年11月22日(金)

対談

2018年8月1日

五十嵐泰正さんと富永京子さん

富永:『原発事故と「食」』の第3章「社会的分断とリスクコミュニケーション」でも触れられている、人が情報を受け取る時、発信者の専門知や権威よりも、「自らと価値観を共有していること」を重視するという「主要価値類似性モデル」に、深く関わるお話ですね。「細かいことはわからないけど、あなたの野菜なら買う」という、ある種専門知とは別個の、価値観や感覚を共有するという実感が重要だという議論は、普段から社会問題に敏感な人の振る舞いを見ていても、市井の一員としても理解できます。

五十嵐:はい。「事実を話せばわかる」「正しいものは正しい」というスタンスの発信では、忌避感を持っている人には最初のアプローチができない。まさに社会心理学でいうところの主要価値類似性モデルが重要な意味を持つ局面で、僕もあらためて勉強し直しました。ただ、本来なら事故直後の混乱期は過ぎ、価値観の共有の外側に踏み出すべきフェーズになっても、いっこうに敵と味方に二分されてしまう状況をどうすればいいのか、ということをそろそろ考えないとなと思ったんですね。

富永:「寄り添う」ことのバージョンアップが必要だ、という議論はとても印象的でした。ただ、専門家が価値観を共有しない人々とのリスクコミュニケーションに臨むとき、さらにいえば信頼を失った専門家がふたたび人に寄り添おうとするとき、どうやって信頼をふたたび積み重ねていけばいいのだろう、ということも気になりました。辛い話ですが、自分も社会的発信のなかで運動参加者の方や問題当事者の方を傷つけた経験がないとは言えないわけで、そこで失った信頼をどう取り戻そうかと思っているものですから。

五十嵐:僕がイメージしている「信頼」は、立場の違う人のプラットフォームになりうるようなもののことです。一方で、明確に支持してくれるであろう層に向かって、反対側の人たちを非難してみせることで、さらに強力な「信頼」を得るという手法を続けている人たちも、どちら側にもいる。これもまた、主要価値類似性モデルを見事に活用しているのだということもできますね。

富永:後者の「信頼」は、限りなく「同調」に近いわけですよね。それは、価値観や社会問題に対する認識が同じ側の人たちの間でだけ流通し続ける。

五十嵐:そこに、たとえば福島県産品の売上げの回復っていうあくまで実利的なゴールを設定してみることで、見えてくる構造もあります。「反アベ」みたいな価値観の共有を確認したうえで、「福島の農水産物の汚染は隠蔽されている!」って盛り上がることには憤りを覚えますが、そういう人たちの言動の誤りを揶揄して、普段から福島県産品を買っている人の間で頷きあってみたところで、それが桃やカツオの売上げ向上につながるとはやはり思えないんですよね。

軽視される「調整」

五十嵐:原発事故後に、「人文・社会学者は自然科学的なファクトを踏まえた議論をしない」という批判がありましたよね。それはその通りなのですが、ただ自然科学者の側も人文・社会科学領域で確立しているコミュニケーションにまつわる理論をきちんと踏まえていたのか、と思うことがあります。

 リスクコミュニケーションの成否は、人柄とかコミュ力なんて属人的で曖昧な能力で分かれるわけではないと思うんですね。主要価値類似性モデルだけでなく、たとえば「二重過程理論」(人は直感的に好悪を判断するシステム1と、論理的に判断するシステム2の二つで情報を処理するという理論)を知っていれば、特に人々の関心が低下している局面では、直感的に「感じ悪い」と受け止められる物言いが、どれだけ損かすぐわかる。これらは社会心理学の基本的な理論ですが、人文・社会科学にも有用な知見がいくつもある。お互いの領域に越境して踏まえるべきを踏まえなかった点は、さして変わらないようにも思います。文科省が唱える「文理融合」みたいな話ではなく、もっときわめて実践的な現場の話として、文理協働は大事だと痛感しますよね。

富永:柏の円卓会議の活動をまとめられたご本『みんなで決めた「安心」のかたち』も拝読したのですが、あとがきで、社会学者の素養が活かせる運動の形態は闘争やエンパワーメントではなく、「それぞれの社会的文脈の折り合いを見つけようと模索する調整型の『運動』のほうではないか」と書かれていましたが、まさに「調整」のための理論や方法が社会学の知見のなかにあるということですよね。それは社会学に限らず、政治学や経営学といった社会科学全般にあるものだと思います。


新着記事

»もっと見る