対談

2018年8月1日

»著者プロフィール

五十嵐:そうですね。

 

富永:自然科学者も話し合いはするし、資源配分もする。そのための意思決定が何に基づいているかといえば、議論やその中でのアジェンダ・セッティング、もっと細かく言えばその議論をどこでするか、誰を呼ぶかといった事柄になるわけで、そうした過程ひとつひとつにはそれなりに社会科学の知見があるわけですから。そういう知見の重要性をもとにコミットしていくのが社会科学者の運動であり、社会問題への関与の方法でもあるのかなと思うんですよね。

五十嵐:一つの武器ではありますよね。価値ではなく手段への貢献といいますか。

富永:私は社会運動を研究していますが、わりと珍しい「非参与」の観察者なんですよね。「運動してないくせに」とは常に言われますが、『社会運動と若者 日常と出来事を往還する政治』を読んで「運動の役に立った」と言ってくださる人もわずかながらいます。

 たとえば若者の運動でも、SEALDsのような新しい活動に参加している人もいれば、どちらかといえば「素人の乱」のような活動に共感的な人たちもいて、主観的には全然違うんだけど同じテーブルに並べることで、何が違って何が共通しているかがわかった、とか。

 あるいは、安保法制は問題だと思っているけど運動に共感できなかったという人から、運動に参加する人々がどのような合理性のもとでやっていたのか理解できたと言っていただけたのも嬉しかったです。ひょっとしたら本を通じて、主観的には異なる立場にある参加者同士や、非参加者と参加者をどこかで調停できた部分もあったんじゃないかなって。

五十嵐:社会学者本来の仕事ですよね。

富永:そう言っていただけるとありがたいです。でも社会学にしても、もしかしたら他の社会科学系の領域にしても、運動に参与するのが当然、むしろそれをもって貢献となす、という流れが強くなっているようにも感じます。もちろん、そういった研究者が重要な役割を果たす局面はあると思うのですが。

五十嵐:社会学の学部教育で教わったことのひとつが、「現場の人が見えていないことを見せる」ことが大事だということでした。もちろんそれが、現場に破壊的な影響をもたらしてもいけない。現場の実践に敬意をもって読み解きつつも、現場の論理や経験値とはまた異なる、当事者たちに見えていない構造を観察し抽出することで、リフレクティブに現場に資するのが社会学者だ、と。つまるところはそれで、実際に見えていないことを提示すると嫌な顔をされることもあるけど、長期的には運動や、団体の運営や経営にも役に立つとは思っています。

いたるところにある「忖度」

――富永さんの「非参与の研究者」というスタンスは、方法として選んだものなのでしょうか?

富永:もちろん問題意識を共有できて、時間や体力があれば集会にも行きますし、付き合いでデモに参加することはあるし、署名もするんですけど、やっぱり心から一緒にやっているっていう感じより、そこにいて抱く違和感を大事にしたかったんですよね。研究者としてのキャリアは短いですけど運動の現場に通って10年近くになるわけで、運動やってます、主体的に関わってます、という形で参与する機会もいくらでもあったと思うんですけど、でも運動しようという気にはならなかったですね。

五十嵐:何が一番、富永さんご自身を押しとどめたんだと思いますか? 一つの価値観に同調することへの抵抗でしょうか?

富永:同調への抵抗もあるんですが、もう一点、運動していることに慣れちゃうのが、自分のような問題意識を持つ研究者としていいのかどうか、というのは気になりました。それこそ、運動に参与していて、同調している人向けの発信しかできなくなるな、と。もうちょっとモジモジしている人っていると思うんですよ。あいつ、SEALDsで頑張ってるな、言ってることも正しいな。でも、俺はデモに行けねえなー、みたいなタイプの人たちと、つながれる言葉を持っている研究者が、社会運動研究の中には実はあまりいない気がしたんですね。

関連記事

新着記事

»もっと見る