2024年11月22日(金)

立花聡の「世界ビジネス見聞録」

2019年2月4日

危機一髪!日本人副総経理に向けられた刃

 証人高橋浩一の証言と調書(判決書第5項):「高橋浩一はセイコー公司副総経理である。2016年3月28日14時20分ごろ、高橋が会社に入ると、受付の前に血を流している者が倒れているのを目撃した。その時、従業員の方は刃渡り約23センチのナイフを持って傍に立っていた。方は高橋を見るや、高橋に襲いかかり、その左頚部にナイフを刺そうとした。高橋はナイフを避けながら逃げたため、負傷しなかった。警察が現場検証した結果によると、高橋のシャツの左襟部分にナイフで切り付けられた痕があり、シャツの右袖に(訳注:他の被害者の)血痕が残っていた。高橋はシャツを証拠物として警察に提出した。方は2008年7月にセイコー公司に入社し、労務契約は1年に1回、4月に更新してきたが、2016年に会社は長期的な観点から、方との契約を更新しないことにした」

 真実は次々と明らかになる。セイコー公司の副総経理である高橋氏が事件に絡んでいた。しかも、犯人は高橋氏に明確な殺意を抱き、ナイフを向け、刺し殺そうと襲いかかったのだ。立派な殺人未遂ではないか。高橋氏が機敏に避けていなかったら、どうなっていたか。想像するだけで鳥肌が立つ。

裏切られたことで芽生えた殺意

 証明された事実(判決書第18項):「被告人方の供述と調書によって、次の事実が明らかになった。2008年、方はセイコー公司と労働契約を締結し、時計修理部で勤務を始めた。その後繰り返し労務契約を締結し、最後の労務契約の満期日は2016年3月31日である。黄某は方の勤務する修理部の副経理(訳注:次長または係長)である。2016年初、方は母親の病気で在宅介護するためにたびたび有給休暇を取った。それが黄某は不満だった。2016年2月24日、会社は方に契約更新の意向を示し、方もこれに同意した。2016年3月21日、休みのことで方と黄某は議論で争うことになった。このため、方は会社の副総経理である高橋浩一に直訴したにもかかわらず、高橋は方の釈明を聞こうとしなかった。これだけでなく、さらに方を腕時計予検部門から修理ホールに異動させた。会社の規定によれば、契約更新は2016年3月初旬に完了しなければならない。方と同じ状況の同僚は全員契約更新が終わったにも関わらず、(まだ終わっていない)方は会社が反故にしたと予感し、その根本的原因は黄某と高橋にあって、2人の邪魔で自分がクビを切られると悟った。2016年3月26日の週末、ついに、方は南京路の張小泉刀剪商店(訳注:ナイフ専門店)でナイフを購入した」

 3つの大きな問題があった――。

 まず、労働・雇用関係上の合法性の疑問。方が入社した当時に締結されたのは労働契約だったが、その後労務契約に変更され、しかも繰り返し更新する形になった。

 中国法の下では、労働契約と労務契約はまったく異なる性質の契約である。前者は労働法の適用だが、後者は民法適用になる。平たく言ってしまえば、前者は労働者が労働法の手厚い保護を受け、雇い止めも解雇も簡単にできない契約である。そのうえ方のケースはすでに事実上の無固定期間雇用(終身雇用の正社員相当)になっていた可能性が大きいため、そう簡単に解雇できないはずだ。ところが、後者の労務契約だと、労働者ではなく、請負業者の身分となる方は労働法の保護を受けられなくなる。

 労働契約と労務契約の本質的な違いは、指揮命令権の有無にある。労働契約は会社が従業員に対する指揮命令権を伴うが、労務契約では当事者双方に従属関係は存在しないため、会社には指揮命令権がない。だが、休暇の取得という一例からだけでも、セイコー公司は終始指揮命令権を行使していたことが分かる。方は会社の厳しい管理下に置かれていた。これは会社が自ら「偽装労務契約」を示唆するような事柄ではないだろうか。それが事実ならば、日本社会で問題となっている「偽装請負」の中国版になる。もちろん中国法の下でも違法である。つまりセイコー公司が方に対する解雇行為は、違法解雇である可能性があるということだ。

 次に、会社が契約更新の約束を反故にした不誠実さだ。会社は一旦方に契約更新の意向を示し、方に諾否を問うメールを送信した(当初から更新するつもりがなかった、そうしたメールも送らなかっただろう)。方もこれに同意した。その時点で更新手続は完了していたはずだ。この前提ならその後、会社が反故にしたことは、契約破棄にほかならない。契約は法的拘束力を持った中で行う約束で、当事者(会社)の申し込みの意思表示と相手側の当事者(方)の承諾の意志表示が合致して成立する法律行為であるから、契約破棄は不誠実な行為として非難を受けるだろう。誠実をモットーに海外でも評判の良い日系企業の名誉が毀損されかねない非常に遺憾な出来事である。

 最後に、日本人上級管理職である高橋氏が従業員(方)の釈明を聞こうとしなかったことは最悪といえる。裁判所でさえ殺人犯にも弁解の機会を与えているのに、従業員の釈明に聞く耳を持たないことはもはや、論外である。

 一連の事実から、方の殺意がいかに芽生えたかの背景が徐々に見えてくる。これが裁判官の心証と判決にも強く影響を与えたのだろう。


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