2022年11月29日(火)

立花聡の「世界ビジネス見聞録」

2019年2月4日

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立花 聡 (たちばな・さとし)

エリス・コンサルティング代表・法学博士

1964年生まれ。早稲田大学理工学部卒。LIXIL(当時トステム)東京本社勤務を経て、英ロイター通信社に入社。1994年から6年間、ロイター中国・東アジア日系市場統括マネージャーとして、上海と香港に駐在。2000年ロイター退職後、エリス・コンサルティングを創設、代表兼首席コンサルタントを務め、現在に至る。法学博士、経営学修士(MBA)。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員。

 

検察まで殺人犯に同情的だったのはなぜ?

 被告人(方)の弁護側は故意殺人罪に異議を示さないものの、「労働紛争に起因し、さらに会社側の明らかな過失によって被告人は情緒的な犯行に及んだ」とし、刑を軽くするよう裁判所に求めた。会社側の顕著な過失によって、被告人は心神耗弱までいかなくとも感情や行動制御能力が著しく低下したことを理由にした。

 判決理由は、以下のように記されている。

「・・・(中略)方は犯行後逃亡せずに出頭し、犯行事実を自供したことから、自首に相当する。方の家族は代わりに朱某*の経済的損失を賠償し、朱某の理解と許しを得ただけでなく、黄某の家族(訳注:遺族)への賠償金をも本裁判所に供託した。本事件の起因をも勘案すれば、方に対する減刑処罰は妥当と認める。被害者訴訟代理人の自首不相当意見および死刑求刑を支持しない。弁護人の弁護意見を支持する」

*朱某とは、大けがを負った29歳の中国人女性のこと

 これに関連して、刑事事件附帯民事賠償請求として、被害者の朱某は一旦提訴したものの、後日これを取り下げた。(参考:上海市第二中級人民法院刑事附帯民事裁定書(2016)滬02刑初72号

 確定判決が下された後、上海TVは監視カメラが捉えた犯行の一部始終の動画も入れながら、生々しい追跡報道を行った(上海TV「案件フォーカス」番組 ※【視聴注意】一部暴力シーンあり)。

 服役中の方は取材に応じてこう語った。「私はこの会社に入って8年で、2度表彰を受けました。私が所属する修理部、カスタマーサービス部で2度受賞しているのは、私1人だけです。他に受賞者はいませんでした」。なのに、1年後の定年退職を目前に彼は解雇された。

 同じ番組に登場した上海市人民検察院第二分院の白江検察官はこう感想を述べた。「彼(犯人)はこの仕事をとても大切にしていました。彼の奥さんは仕事がないし、お母さんは病気で危篤でした。家族の生計、重荷がすべて彼一人にかかっていましたからね」

 裁判所だけでなく、検察まで犯人にこれだけ同情的だったことは異例としか言いようがない。胸が詰まる思いである。

日系企業にとっての教訓

 最後に補足情報として、中国の刑法と死刑について触れておきたい。

 中国の刑法は、殺意をもってなされた殺人を「故意殺人罪」とし、最高刑は死刑。未遂でも、殺意の強さや犯行の悪質性などによって殺人罪が成立する。過失や注意不足などで人を殺す罪を「過失殺人罪」(日本の過失致死罪に相当)と定めている。全般的に日本よりはるかに厳しい法制度になっている。

 死刑を犯罪撲滅に対する実効性があると司法当局が確信しているため、死刑の適用が多用されている。中国は死刑執行件数を公表しておらず、正確な件数は明らかになっていないが、世界中で最も多いという説もある。

 そこで異例として執行猶予つきの死刑判決が存在する。何らかの理由で情状酌量の余地があると認められた場合の救済措置である。執行猶予つきの死刑判決を受けた者は、猶予の期間中に罪を犯さなければ減刑され、死刑を免れる可能性がある。さらに服役期間中に模範囚となれば、死刑から無期懲役、無期懲役から(有期)懲役刑に減刑される可能性もあるとされている。したがって、方は年齢的に考えて、生きて出所できる可能性もあるとみていいだろう。

iStock / Getty Images Plus / wan xiaojun

 セイコーウオッチ上海法人社内で起きたこの殺人事件は、すべての在中日系企業、いやすべての在外日系企業にとって決して他人事ではない。個別事件を超えて、このような惨事が二度と起きないように、適正な人事労務管理、コンプライアンス、そしてリスク管理体制の構築が急務となろう。

 経営者としては、法令や労働契約上明文規定された義務だけでなく、労務管理上従業員に対する安全配慮義務といった信義則上の義務をも負っている。企業の経営者や幹部はその責任の重大さを一刻も忘れることなく、事件の未然防止に社内情報の収集、従業員のメンタル管理などに総力を挙げて取り組んでもらいたい。

連載:立花聡の「世界ビジネス見聞録」

  
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