今年3月上旬の結成以降、カダフィ政権と戦ってきたリビアの国民評議会は、首都トリポリが陥落してから約10日後の9月上旬、当時カダフィ派が立て籠もっていたシルトやバニ・ワリッド、セブハへの総攻撃の期限を9月10日に設定し、大佐自身や子息たちの投降を呼びかけた。しかし、期限切れから1ヶ月強が経過しても、カダフィ派は抵抗を止めず、大佐自身の身柄を拘束できていないばかりか行方さえつかめずにいる。
なぜ、国民評議会側はカダフィ派の籠城するシルトなどの攻略に手間取ったのだろうか。
答えは、国民評議会側の軍勢が、一部のカダフィ軍からの離反者を除けば、カダフィ政権の打倒の旗印の下に参集したいわば素人の集団であったからだ。さらに、各地方の都市や町ごとの寄せ集めである反カダフィ軍が、全体としての作戦のないまま別個に攻撃を仕掛けたため、必死の思いで反撃するプロ集団のカダフィ軍にいとも簡単に跳ね返される失態を繰り返していたからである。さらに、反カダフィ軍が総じて軽火器類で攻撃したのに対して、カダフィ軍は重火器類を駆使するとともに狙撃兵を建物の上や高台に配し狙い撃ちにしてきたことも理由に挙げられる。
加えて、シルトにしてもバニ・ワリッドにしても、市内に数万人単位の市民が、いわば人質状態で取り残されていたため、頼みの北大西洋条約機構(NATO)による絨毯爆撃も効かず、反カダフィ軍による集中砲撃もできなかったことも影響している。
作戦を練り直す反カダフィ軍
自分たちの弱点を認識した反カダフィ軍は、その後、重火器類を整え、各部隊を統合する作戦を練り、市民の逃亡を助けつつ、時間をかけながらじわりじわりと包囲網を狭める戦略に変更した。その甲斐あって、南部砂漠地帯の都市セブハ及びその周辺の町や村落が9月22日前後に陥落し、地中海沿いの都市シルトも10月13日時点で制圧は時間の問題という状況となっている。残るはバニ・ワリッドだが、周囲を固めた上での長期にわたる兵糧攻めの状況下にあるので、シルトが落ちればカダフィ軍の士気は低下し、制圧にそれほど時間を要しないと国民評議会側はみている。
リビア情勢に関心がなくとも多くの人はカダフィ大佐の居所には興味があるだろう。居宅兼軍事施設として使っていたトリポリのバブ・アル・アジジが8月23日に制圧されてから既に50日以上が経過している。その間、カダフィ大佐はどこにいたのだろうか。