「天安門事件」が台湾の民主化に与えた影響
さて、話を90年3月に戻そう。当時の中国大陸も、台湾も社会の状況は驚くほど似通っていたといえる。双方とも、共産党あるいは国民党による独裁の「党国体制」だし、言論の自由も集会の自由も保障されていなかった。
ただ、台湾と中国大陸では大きな差がひとつあった。それは、台湾がすでに86年には民進党の結党を黙認し、87年には戒厳令を解除するなど、民主化の階段を一歩ずつ上がり始めていたことだ。
89年の天安門事件は台湾でもテレビや新聞などで報じられていたという。台湾ではすでに戒厳令が解除されていたとはいえ、まだ民主化の萌芽がかろうじて見えてきた程度だったはずだ。
実際、白色テロの根拠となっていた「内乱罪」を規定した刑法100条が改正され、言論の自由が保障されるのは92年5月のことである。
天安門事件で、血で血を洗うような弾圧が行われたのを知る学生たちが、なぜそれでもなお、中正紀念堂に集まって民主化を求めたのだろうか。
それはやはり、前述したように、台湾はすでに民主化の階段を一歩ずつ上がり始めていたという実績があったからで、中国大陸のように武力によって弾圧することはないだろう、といういささか楽観的ではあるものの、政府に対する期待があったのではなかろうか。もちろん、蒋経国の死後、就任したのが本省人の李登輝だという希望も大きかったのだろう。
資料によると、6,000人を超える学生が集まった中正紀念堂には、蒋経国の息子である章孝慈が学生たちを激励するために訪問しているし、李登輝自身も「学生たちの様子を見に行きたい」と漏らしたものの、「万全の警備が出来ない以上、身の安全を保証できない」という国家安全局の強い反対で頓挫したそうだ。
李登輝はこの「三月学運」あるいは「野百合学生運動」と名付けられた学生たちの抗議活動を重視していた。それにはいくつかの理由がある。
まずは9ヶ月前に起きた天安門事件の影響だ。天安門事件が国際社会にもたらした衝撃は大きく、中国の国際的イメージは最悪であった。
つまり、こうした学生運動が国家のイメージを作り上げるうえで非常に大きな影響を及ぼす、ということを中国の事例から学び取っていたからである。
李登輝いわく「従来の国民党であれば、台湾の学生たちも天安門事件と同じように武力で弾圧せよ、という声が大勢を占めたかもしれない。しかし、天安門事件によって中国が蒙った負のイメージは計り知れなかった。それを目の当たりにしたことによって強硬的な意見は鳴りを潜めた」のだという。