「18歳で出稼ぎに出て広東省で16年間働いた。子供が3人でき、生活が厳しくなり、田舎に戻ったが、農業をする肝心の土地がなかった」。今は仕方なく魚の売買で生計を立てている男性村民は途方に暮れた。陳情を決意した若者が都会から次々と村に戻り、昨年9月、抗議活動に立ち上がった。
村民たちは、自主選挙で選んだ13人の代表からなる自治組織「臨時代表理事会」を結成し、地元共産党組織との徹底抗戦を強めた。市当局は11~12月、独裁書記を解任したが、その一方で自治組織を「違法」と認定し、理事会副会長の薛錦波ら代表5人を拘束した。その後薛の死亡が知らされると、「心因性の突然死」と主張する当局に対して村民は「拷問死」の疑いを強め、村内の緊張は一気に高まった。正義感が強く優しかった薛錦波は、小学生も「烏坎人民の大英雄」と慕うほど尊敬される人物だ。薛が死亡したと知らされた日、「村じゅうが深く沈んだ」(女性村民)。当時、ある男性村民はノートにこう書き連ね、覚悟を決めた。「すべては子供たちの生存のためであり、われわれの権利のためである」。
村の周辺は武装警察に取り囲まれ、対抗した若者たちは村の入口をバリケードで封鎖し、警官の侵入を防いだ。学生らの民主化運動を武力弾圧した89年の天安門事件前夜のような極度の緊張状態に置かれた。
多くの人は、烏坎のデモが、安定維持を最優先する上からの「力」によっていつものように封じ込められると予想した。しかし12月下旬、村にやってきたのは汪洋の右腕、朱明国広東省党委副書記。自治組織を「合法」と認めたのだ。翌年1月には、村民運動を主導した林祖鑾が新たな党支部書記に任命された。そして村民代表や村民委主任らを選ぶ直接選挙に向けた手続きに入った。
直接選挙の陰で起きた村民の反抗
100人超の村民代表を決める選挙当日の2月11日。午前9時、投票会場の小学校の正門には10人以上の武装警察が整列し、校内には陸豊市の役人ら100人以上が目を光らせた。20人以上駆け付けた外国人記者は投票箱から50メートルも離れた場所で取材を強制され、北京の人民大会堂で胡錦濤国家主席を取材する距離感を感じた。共産党が「民主選挙」をやっていると内外に宣伝するための「プロパガンダ村」のようだった。
だが昼ごろに状況が一変する。若い村民・庄烈宏らが、市幹部らに詰め寄り、大声を上げた。「共産党系メディアはあんな近くで取材できるのに、外国メディアはなぜ排除されるのか」。もみ合いの後、外国人記者を規制していたロープは解かれた。
自由な取材が許され、投票現場まで近づくと、まず目に付くのはベニヤ板で仕切られた「秘密写票処」。そこで有権者(7728人登録)は、意中の候補者名を記入する。その後、やっと手に入れた「民主」をかみしめるように、銀色の投票箱に投票用紙を入れる。開票作業も公衆監視の下で投票用紙を一枚一枚数え、ボードに「正」の字を書いていく。長年、村を支配した腐敗や不正への不信感が、「公開・公正・公平」選挙をつくり出していった。
筆者が「烏坎村民は勝利したのでは」と尋ねると、多くの村民から返ってくるのは「われわれの土地はまだ戻っていない」という失望だった。ただ村民の直接選挙によって腐敗幹部を阻止する政治システムは確実に整いつつある。民主選挙は土地奪還のための第一歩だが、村民の「抗議意識」「権利意識」「民主意識」が烏坎社会を変えたのは間違いなかった。
専門家は、烏坎事件の何が画期的だったと見ているのか─。社会問題を鋭く追究する孫立平・清華大学社会学部教授はこう解説する。