この熱き人々

2019年11月25日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 「突然雨が降っても、5分もかからずに全員カッパ着てるもんね」と日高は笑う。雨の中で花開くカッパはフジロックが生んだものだけれど、雨の中で音楽を楽しもうとするのは遊びであり文化だと言う。

 今年は大雨の中テントが水没しても、めげずに思い思いの方法で音楽を楽しむ人たちがいた。まさしく日本のフェス文化を牽引してきたのはフジロックで、そこにくっきり通る一本の筋は日高正博というひとりの人間の音楽観、価値観、自然観によって支えられている。

世代を超え楽しむ音楽の楽園

 日高の左手の小指は、ギターの弦を押さえ続けたため曲がったままになっている。ピアノも弾くが、すべて独学。理由は、人に教えてもらうのは大っ嫌いだから。学校も嫌い。親や先生から言われることにはことごとく反発する子供時代を、熊本の市で過ごしている。

 「360度山ばっかり。毎日同じことするのは性格的に向かない。だから中学時代は弁当持って山に登っていた。『なんで学校ば行かんとか』と怒られても、山で寝転がっているとメロディーや詩が浮かんできて、そっちの方が楽しかったからね」

 進学も就職もしない日高のことを心配した先生が、高校の追加募集のパンフレットを山のように持ってきてつきっきりで勉強を教え、大阪の工業高校に入学。

 「とにかく地元からの出口が欲しかった。勉強はもうチンプンカンプン以下。絶対向いてないし絶対受からないと思ったのに、なぜか受かった」

 大阪に出た15歳の少年は、せっかく受かった高校を1週間でやめて職を転々。東京オリンピックの年で、筆記用具と履歴書を持って工場街を歩けば工員求むの張り紙はいくらでもあった。70年に東京に流れてきた日高は、知り合いのアパートに居候。

 「そのアパートは、東大の安田講堂立てこもり組や中国に行って革命するとか言ってる変なのがいて面白かったですよ。とにかくみんな本をいっぱい持ってた。文学や経済学や政治の本。もう図書館みたいで3日に1回くらい働いて日給もらって、それ以外は手あたり次第本を読むかギターを弾くか。ブルースやロックンロール」

 音楽と仕事の接点が生じたのは、アパートの隣人の知り合いがテレビやラジオ番組の音楽を担当する仕事を請け負い、音楽のわかる社員を探していたという偶然。隣でやかましくギターを弾いている日高に仕事が回ってきた。そこから紆余曲折を経て83年に「スマッシュ」を設立。現在の日高へとつながる道が浮かび上がってくる。

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