「王様は裸だ」と直言した李登輝
そもそもこの「92コンセンサス」という言葉は、国民党が下野する直前の2000年4月に突如として登場したものだ。前月に民進党の陳水扁が総統に当選し、台湾史上初の政権交代が決まっていた。そこに当時、対中国外交を管轄する大陸委員会の主任委員(大臣に相当)を務めていた蘇起が「存在する」と言い出したのがこの92コンセンサスだった。当時の台湾でも一大論争になったが、のちに2008年から発足した国民党の馬英九政権が「一つの中国」を原則とするこのコンセンサスを中国外交の基礎としたため、再び大論争が起こった。そこで飛び出したのが冒頭の李登輝の発言である。
1990年代初頭まで、台湾と中国はいまだ「国共内戦中」という建前のもと、双方の交流は途絶えていた。しかし、総統だった蒋経国は戦後国民党とともに中国大陸から敗走してきた外省人兵士の里帰りを解禁するなど、台中間の平和的な交流の萌芽が芽生え始めていた。
急逝した蒋経国の跡を継いで総統に就任した李登輝は、台湾の民主化と中華人民共和国との対等な関係構築のために動き出した。91年には、双方が内戦中という状況を終わらせるため、国家総動員法にあたる「動員戡乱時期臨時条款」を廃止した。これによって、中国大陸は中華人民共和国が、台湾は中華民国が統治していることを実質的に認めたのだ。
実際、それに先立つ二年前、李登輝は党大会での挨拶で「当面、われわれが一時的に大陸で統治権を有効に行使できないことについて、われわれはこれを直視する勇気を持たなければならない」と発言している。それまで「いつかは中国大陸を取り戻す」と嘯いていた国民党の長老たちに「王様は裸だ」と直言したのが李登輝だった。
そこからいよいよ台湾と中国は双方で窓口機関を設立し、交流拡大のための話し合いを進めていくのだが、この間、92コンセンサスという文言や内容が表に出てくることは一度としてなかった。
李登輝は、月刊誌などのインタビューで92コンセンサスにふれることはあったが、そのたびに「あれは国民党が中国人と手を繋ぐために作り出したものだ」と言ってはばからなかった。さらには台湾側の窓口機関の代表を務めていた「辜振甫からもそんな報告を受けていない」という全否定状態なのだ。
しかし、馬英九はこの「92コンセンサス」を基礎とした中国との交流拡大を旗印に掲げて当選した。2000年から8年間の陳水扁政権では、中国との関係が希薄になり経済が悪化、陳総統が台湾独立色を強めに出しすぎたために国際社会(とくに米国)の支持も失ったことから、台湾と中国の交流(とくに経済交流)拡大を掲げた馬英九に有権者の支持が回帰したのだ。
馬英九政権期にはECFAと呼ばれる中国との実質的なFTAが締結された。ところが、馬政権はあまりにも中国と接近しすぎたため、民意のサーキットブレーキが「ヒマワリ学生運動」として発動。中国との関係拡大までは認めるものの、あくまでも台湾と中国は別個の存在を守らなければならないという有権者のバランス感覚が働いた結果ともいえる。