2024年12月2日(月)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年6月1日

 「ウイグルの母」――今や世界は彼女をこう呼ぶ。「聖女」でも「烈女」でもなく、「母」と。血を流し、地を這って泥にまみれ、ときには「駆け引き」をしながらも、子らのため身を粉にして生きる。綺麗事からはおよそ程遠い彼女の生きざまはまさに「母」のそれであり、同時に、全ウイグル人の今日の艱難辛苦を象徴するものでもあろう。

 「彼女」とは、在外ウイグル人の組織「世界ウイグル会議」の総裁を務めるラビア・カーディル女史だ。今月半ば、「ウイグルの母」は、祖国「東トルキスタン」の国旗と同じ、鮮やかなスカイブルーのスーツに身を包み、世界に散らばる120余名の「子」らとともに、風薫る東京に降り立った。それから約1週間、前回の本コラムで述べたとおり、東京で世界ウイグル会議代表者大会が開催され、それに北京がひどく腹を立てて見せたことは多くの人の記憶にあろう。大会終了の翌日、そんな「ウイグルの母」に話を聞いた。

10代のウイグル人女性の
公開処刑にさえも世界は沈黙

「世界ウイグル会議」の総裁を務めるラビア・カーディル女史
(撮影:WEDGE Infinity編集部)

 「10代の女の子が、『私は無実です! 私の言うことを聞いて!』と叫んだんです。それでも構わず、(中国当局は)この子を処刑したんですよ。公衆の面前で。多くの人々がこの光景を見ていました。それでも、国際社会は沈黙したままだった……」。こう一気に言うと、ほんの少しの間、ラビア総裁の言葉が途切れた。そして、「ですから、私たちは今回の大会を日本で開催したい、と思ったのです。ヨーロッパでもアメリカでもない、アジアの、ここで声を挙げたい、と思ったのですよ」と続けた。

 インタビューの冒頭、総裁はこちらの具体的な質問を待たずに、2009年7月の「ウルムチ事件」後のウイグル地域の厳し過ぎる状況について話し始めた。実は筆者は、2009年7月、ウルムチでの事件の直後、ワシントンでラビア総裁に長時間のインタビューをし、その内容を本サイトにも寄稿した(『【カーディル議長 独占取材】ウイグル弾圧の実像』)のだが、そのとき以来の再度の長時間インタビューの機会を得たことに感謝を述べると、それへの「返事」であるかのように話し始めたのだ。

 「2009年7月5日のウルムチでの事件以後、中国当局は、いわゆる「厳打キャンペーン」を実施しました。ウイグル人に対する弾圧はそれまでにも増して厳しく、暴力的なものになってしまったんですね。この3年間、状況が酷くなる一方でした。私たち(世界ウイグル会議)からは再三、「問題を平和的に解決するために対話しましょう」と呼びかけましたが、完全に無視され、私(ラビア総裁)への非難だけが行なわれてきたのです」

 今般の大会の日本開催は、ややもすると絶望につながってしまいかねない、これ以上ないほどの危機感のなかで決断されたというのだ。

→次ページ 日本、日本人との連帯への決意


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