チャイナ・ウォッチャーの視点

2020年6月3日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

父親が全財産を失う

 10代になったスタンレー・ホーを悲劇が襲う。

 殖民地経営の一翼を担っていた父親の何世光が株取引に失敗し全財産を失ったばかりか、一家は栄光の何一族から放擲されてしまう。日頃は相互扶助を掲げる一族の在り方に反するようだが、あるいは何世光が一族の家訓を破ったことで、「溝に落ちた犬に石を投げろ」とばかりの過酷な仕打ちを受けざるをえなかったのかもしれない。この時、スタンレー・ホー少年の心に芽生えたであろう二律背反的な心情――何一族に対する誇りと恨み――が、あるいは後の企業家人生を支えていたようにも思える。

 苦学して香港大学(理学部)に進んだ頃、日本軍統治下に置かれた香港を離れマカオに移る。彼の回想録からは、当時の彼が日本軍と蔣介石軍の権力の真空地帯を利用して密輸に励んだ姿が浮かび上がってくる。

 第2次大戦が終わりイギリス殖民地として再出発した香港に戻り不動産業を始めたが、1960年代初頭には再びマカオへ。「愛国企業家」として親中姿勢を貫いた霍英東(ヘンリー・ホック)や鄭裕彤らと共に澳門旅遊娯楽公司を設立し、黒社会に牛耳られていたカジノを誰もが遊べる健康的な娯楽産業へと生まれ変わらせ、マカオを総合リゾートに大変身させたのである。

 彼にマカオでの成功をもたらした要因の1つに中国人のバクチ好きのという民族性を挙げておきたいが、カジノ経営から黒社会の暗い影を一掃したことも大きかったはずだ。

 血で血を洗うような死闘の末に黒社会のゴッド・ファーザーを排除し、ラスベガスを超える世界的規模のカジノ・ビジネスをマカオに打ち立てた手腕は、サー・ロバート・ホートンのビジネスに対する荒々しいまでの執念を思わせるに十分だ。やはり何王朝の威光と伝統というものだろう。だが黒社会を捻じ伏せた背景に、マカオ、香港の両殖民地当局のみならず中国政府の“暗黙の了解”があったであろうことは否定し難い。

 彼が築いた信徳集団はマカオと香港を拠点に、カジノと不動産開発ビジネスを柱にして航空、海運、港湾施設、インフラ建設、石油、発電、ショッピング・モール、ホテル、レストラン、ゴルフ場などを経営する一方、中国、カナダ、ポルトガルに加えタイを中心とするASEAN(東南アジア諸国連合)に活動の輪を広げた。

 1997年の香港の、そして1999年のマカオの、中国にとっての屈辱の近代史の象徴でもある2つの殖民地の「中国回帰」に際し、彼は中国政府を積極支持する立場を貫いた。マカオの宗主国であるポルトガル政府に対する強い影響力を行使し、北京とリスボンの仲介役を務めたとも伝えられる。

 彼は自らが築き上げた莫大な資産を使って、19世紀末期から20世紀初頭にかけ西欧列強が中国から奪い去った清朝の秘宝の数々を買い取り、中国に“里帰り”させている。

 かくて彼は「愛国企業家」の列――しかも、その最上位――に位置づけられることになるのだが、他の「愛国企業家」と同じように、「企業家」であればこそ彼の「愛国」事業はなによりも投資に通じていた。もちろん、そのことは中国政府も充分に織り込み済みであり、かくて中国政府と「愛国企業家」との間で「双嬴(ウイン・ウイン)関係」が成り立つことになる。

 たとえば1999年の返還から2002年にカジノ経営が自由化されるまで間も、中国政府からはスタンレー・ホーにカジノ経営権が独占的に与えられていた。

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