2024年11月25日(月)

中年留学日記

2012年6月27日

 日本で生まれ育った純粋の日本人が文化の異なる米国で学ぶということは言葉のハンディがあるのと同時に、米国の中でのマイノリティ(少数派)グループの一人として社会に参加するということだ。ハーバードは留学生も多くいる国際的な大学ではあるが、当然ながら米国の大学であるため、大多数の学生は米国人であり、それを前提にした価値観や社会常識、教育手法などが授業にも色濃く反映される。

 たとえば子供のころから米国で育った人なら誰でも知っている昔のテレビ番組の話や、政治家や歴史上の人物の名前、生活一般に関する伝統やルールなど説明を要さなくても彼らは理解しているが、私のような外国人には知らないことが多い。そういう意味では、米国滞在中、日本では経験したことのない戸惑いや考え方の違いなどを味わうこともあったが、そうしたことに気付くことも勉強のうちだと思うようになった。

 ハーバードやMITで学ぶ日本人は学生、社会人を問わず優秀な人が多いが、中国や韓国などの出身者と比べて人数が少ないのは気がかりだ。アジア諸国がどんどんエリートを送り込む中で、正直、最近の日本が後塵を拝しているのは否めない。

アクセントなど気にしない中韓留学生

早くも新入生の受け入れ準備を始めたハーバードのキャンパスでは学生以外に観光客の姿も増えてきた

 授業では機関銃のような速さでしゃべる米国人学生に対抗して、中国語や韓国語のアクセントが強い英語をものともせず、どんどん積極的に発言するほか、授業でのプレゼンなどでもリーダーシップをとっている。彼らが貪欲に知識を吸収し、意見発表や行動で授業やイベントに貢献する姿勢が見えるのに対し、日本人はまじめで静かだが、なかなか積極的な参加(米国流にいえばコミットメント)に至らないし、存在も目立たない。

 米国の社会はあらゆる場面で個人の行動が試される社会なので、そういう意味で日本人は発想の転換を大いに迫られているとも感じた。そうしないとアジアの中での存在感が希薄になってしまう。


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