返還直前、資産に余裕を持つ少なくない人々が海外に移民したが、それは大陸と常に向き合う香港の人々がいち早くこのような懸念を抱いたためだといえよう。そして07年以後、胡錦濤前国家主席が愛国主義教育の香港における展開を求めるようになった。さらに広東語ではなく普通話(北京語を軸とした標準語)による教育を求める動きが起こったこともあり、香港の将来を担う若者を中心に、香港の基本的な価値である市民社会らしさ、法の支配、そして広東語を中心とした文化を守る意識が高揚した。それがついに、行政長官の直接公選制実現を目指す14年の雨傘革命運動につながったほか、中国が犯罪者と見なした人物を大陸に引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例」への反対をきっかけとする、19年の全面的な抗議運動につながった。
それにもかかわらず、何故国際社会はこのような問題について強く声を上げなかったのか。結局のところ、「世界の工場」としての中国に幻想を抱き、その下で香港の繁栄、とりわけ法の支配を前提とした金融センターとしての役割も、中共が善意でありさえすれば47年以後も無限に続く、あるいはその頃には中国自身が中間層の台頭とともに自由で民主的になっているという根拠なき思い込みを続け、思考がなかば停止していたためではなかったか。やがて香港警察の過剰なやり方に対する抗議の声が強まり、19年11月の激しい衝突から区議会選挙における民主派の勝利へという目まぐるしい推移を見届けることで、それまで香港の抗議運動の性質について見極めかねていた海外(とくに日本)のメディアもようやく、これは圧政への抵抗であるという本質に気付いたのであった。しかし中共としては、香港と中国の安定団結を破壊する勢力が、外国勢力と結託して破壊行為を行ったという主張を強め、ついに今年7月の香港国家安全維持法施行につながってしまった。
香港国家安全維持法は、当初「遡及法ではない」と説明されていながら、実際には大陸側から送り込まれた国家安全維持公署の指揮命令のもと、密告なども奨励し、中国にとって疑わしい人物の行状を遡及法的に調査し、特区別行政区政府と香港警察に対応させる枠組みとなっている。そして林鄭月娥行政長官は、「香港は三権分立ではない」「行政が主導し、立法と司法は従属する」と説明し、いとも容易く長年来の香港社会のあり方を否定した。そして、事実上行政長官の上に君臨する国家安全維持委員会の駱恵寧主任は、長らく青海省や山西省といった西北の省の党書記であった人物であり、国家安全維持公署の実務を指揮する鄭雁雄署長は、11年に広東省汕尾市で発生した烏坎(うかん)事件の鎮圧で出世した人物である。
これこそが、中国が国際社会に発するメッセージである。中国のあらゆる問題に外国勢力が関与することは許さないし、中国が屈辱にまみれた近現代を完全に過去のものとして、むしろ中国が世界を真に主導する「中国夢」を実現するためにも、香港において国家と社会の安定と団結を阻害する言論と行為は一切許さないということであろう。
しかも中共中央は、このような発想の「正しさ」が習近平の執政8年間のうちに「実証」されたとみている。去る12月3日に開催された中共中央政治局常務委員会の会議では、年収が約6万円を下回る約1億人の貧困人口を「脱貧困」へと導く措置が絶大な成果を挙げたとし、政府が「貧困県」と指定してきた全ての県について「脱貧困」を認定した。その原動力こそ、「党の指導」による全国・全党員一丸となった貢献に他ならないのだという。もちろん、その数字が正確なものではなく、21年7月の中共創建100周年を控えて習近平政権に忖度する下級幹部が水増し報告をした結果であるかも知れない。それでも、少なくとも改革開放初期まで普通にみられた極端な貧困の風景は中国から概ね消え、中進国並みの生活が広がっていることは否めない。