2019年の11月24日、香港では区議会議員選挙が実施され、民主派が圧倒的な勝利をおさめた。加えて11月27日には米国で香港人権民主主義法が施行され、その翌日は米国の感謝祭祝日であったこともあり、香港の街は星条旗も翻る興奮に包まれた。
しかしそれから僅か一年で、香港においては法の支配が失われ、中国共産党(以下中共と略す)の論理が司法も立法も凌駕し、相互の信頼に基づく市民社会は一変して、密告と遡及法的に怯える地と化してしまった。20年12月2日、香港の民主活動家である黄之鋒・周庭・林朗彦氏が、19年6月21日に警察本部の包囲を煽動した容疑で実刑判決を受けたほか、民主派の立場をとる代表的な新聞である蘋果(りんご)日報のオーナーである黎智英氏が「印刷工場として登録した建物を本来の目的以外の用途で使用した」詐欺の疑いで逮捕され、保釈が認められず拘留された。
このような事態は、多事多難であった20年の世界の中で、中国が様々な意味において圧倒的な存在となり、そのことによる最も痛みを伴う矛盾が香港という場で噴出した結果である。そして同時に、これまで西洋を中心として回って来た近現代史やグローバリズムと中国ナショナリズムとの折り合いの悪さを象徴している。
本来、緑の山と島々の片隅に漁村が点在するだけであった香港が、突如歴史の表舞台に躍り出たのは、アヘン戦争に伴い1842年に南京条約が結ばれた結果であり、以来香港は、西洋近代文明と中国文化が出会う場所として独自の発展を遂げ、少なくとも英国は香港において法の支配を徹底し、大陸から流入してくる人々に基本的人権を保障し、自由と相互信頼に基づく商業活動や文化活動を可能にした。香港がグローバルな金融ネットワークの一大中心であり得たのはこのためであり、中国と西洋の出会いが香港という文化的空間を花開かせた。
いっぽう中国の近代においては、西洋や日本によって伝統ある文明世界が衰退に追いやられただけでなく、勢力圏獲得競争による「瓜分(分割)」の恐怖に見舞われる中、被害者としての側面を強調するナショナリズムが強まった。そこで中国を救い、本来中国が世界文明の中で占める位置を回復するためにも、エリートの独裁による安定と団結こそ良しとする発想が支配的になった。
もちろん、毛沢東の苛政への反感から、1980年代の中国ではそのような発想を問題視し、民主と自由を求める動きが強まり、89年の民主化運動につながったことは確かである。しかし六四天安門事件は、中共が今一度被害者ナショナリズムを強める契機となってしまった。中共は、西側諸国が彼らの経済・文化的な魅力を社会主義国に広めることで、いつの間にか社会主義国を内側から崩壊に導くという「和平演変論(平和的体制転換論)」を軸に据え、こうなる前に中共自身が外資と技術を採り入れて経済発展を図り、新興の中間層を党内に取り込もうとした。鄧小平が香港の目の前の深圳で92年に説いた「南巡講話」は、国の門戸は開いても決して政治・社会的な価値観において西側中心のグローバリズムと合流するものではなかった。
したがって97年の香港返還は、当時大学院生としてチベット問題を研究していた筆者から見て、余りにも間の悪いものであった。高度成長を図る当時の中共が、外部に対しては微笑みと共に「双嬴 (Win-Win)」を持ちかけ、内政不干渉・相互尊重・平和的な談判を通じたパートナーシップを説いても、既に中国の主権下に取り込んだ香港については、まさに主権・ナショナリズムの論理に取り込まれた故に、その独自性をいつまで尊重するのか疑問であった。とりわけ「一国二制度」と言いながら、緊急時における全人代の介入と条文解釈権を強く示唆する特別行政区基本法の趣旨からして、「香港の現状は50年は変えない」という言質が守られるとは断言できなかったし、2047年には香港にも共産党組織が網羅され、「党の指導」が社会のあらゆる場面で貫徹される事態も当然のように想像し得た。