プロレスをやめても、戻るところがなかったんです
現役の頃にお世話になった選手は多いですね。その1人が、ディック・マードックさん。1980年代には(アントニオ)猪木さんと名勝負を繰り広げたけど、晩年(特に1990年初頭以降)は苦しかったようですね。アメリカ、日本でも大きな団体では活躍の場が少なくなって。新しい選手が次々と出てくる。技もどんどんと変わる。新陳代謝の激しい世界だから。
49歳で(1996年に)突然死した時は、ショックでした。でも、僕にとってはある意味ではよかったのかもしれません。引退後に、あの方が何をできるのか…。僕は、想像がつかない。みじめな姿は見たくない。他にも、お世話になった選手が若くして亡くなったと聞くと、正直、ほっとする。すごく憧れて、とても尊敬をしていたからそんな思いになるんでしょうね。プロレスの選手は引退すると、消息不明が多い。その後の生活は大変なんじゃないかな。僕もですが…。
プロレスファンは、うちのお客さん全体の5%くらい。これが、25年も経営できた理由の1つだと思います。「プロレスラーが来た!」と宣伝はしませんが、桜田(一男)さん(ケンドー・ナガサキ)や田上(明)さんが引退後によく来てくれていたんです。「おいしい」ってね。桜田さんは亡くなる数か月前にも。田上さんには、肉の仕込みもお教えしました。大相撲力士の頃にちゃんこ鍋を作っていたみたいで、包丁さばきが上手い。その後、つくば市でお店「ステーキ居酒屋チャンプ」を奥様と経営されているんです。
桜田さんとはピラニアデスマッチをしましたね。リングの真ん中に水槽。ここに100匹のピラニア。頭を殴られ、血を流す僕が水槽に頭から入れられる。桜田さんは規格外。大きいし、強い。パイプ椅子で殴る時、手加減しない。他の選手は、気を多少使うんですけどね。
デスマッチの内容は、僕が考えることが多かった。毎回変えないと、お客さんが飽きてしまうから、大変だった。アメリカでは、今もデスマッチが盛んで、現役のたくさんの選手が来日した時、この店に来てくれたこともあります。「レジェンド!」と僕のことを言ってくれていました。
もともと、プロレスに強く惹かれたきっかけは大仁田厚さんとの試合。1989年に日本初の有刺鉄線デスマッチをした時です。当時の僕は空手。大仁田さんを蹴ると、ふらふらと体を自ら有刺鉄線にぶつけにいく。お客さんが喜ぶ。ああ、これがプロだって。とても感動しました。所属していた誠心会館に「空手をやめて、プロレスラーになります!」と言ったら、館長の青柳誠司さんから怒られて。しばらく疎遠で、今は仲良くさせていただいていますが。
会館には同級生の斎藤彰俊がいて、僕がプロレスに誘ったんです。斎藤は早いうちに新日本(プロレス)で小林邦明さんたちとの抗争で有名に。悔して、なんとかしないといけないと思い、1992年に後楽園ホールでの試合に臨んだんです。対戦相手をめがけて2階バルコニー(約6メートル)からダイブをした。これで人生や世界がガラっと変わりました。いちやく有名になって。あの時、けがをしたところで失うものがない。ひるむものはなかった。泣かず飛ばずで、誰もがすぐに消える選手と思っていたはずですから。
子どもの頃に町内でも1、2を争う貧乏な家に生まれて。それを友人たちに隠すのに、子どもなりに必死だった。プロレスをやめても、戻るところがないんです。もう、這い上がるしかなかった。