この言葉で原さんは人が服を着る意味を改めて考えさせられた。たぶん服はただ身体を覆えばいいのではない。着る物と着方が接する人に何かを伝える。では、日本人として何かを伝えやすい服とは何か。やはり和服だろうと思った。着物は呉服というぐらいで、もともとは中国から来たものだろうが、今では完全に日本人の着るものとして定着している。和服は日本にしかないのだから、世界どこに行っても日本人が着るかぎり、それは「着方標準」となって、外国人に何も言わせない貫禄になる。あー、着物はいいな、と原さんは思ったが、着物についてはそれきりで忘れた。
帰国後、原さんは広島・呉で任務に就いた。専門は機関士であり、動力回りを担当した。海自での毎日は正直、面白かった。機関銃や魚雷、大砲の発射訓練や、イージス艦の火器管制を学ぶこともできた。他の職場では絶対やれないような経験ができたのだ。
しかし、25歳のとき海自を退官した。規則や組織に縛られ、息苦しさを感じたし、自分で思い切り何かビジネスに挑戦したいとも思った。
退官する少し前、清水の舞台から飛び降りるつもりで、25万円の着物を仕立てた。退官後も休みを取って着物や布地の産地を見て回った。旅費を節約するため夜行バスに乗り、栃木、茨城、新潟、京都、大阪、金沢、島根、沖縄など、全国の名産地を訪ね、直接布地に触り、仕立て上がった着物に感嘆しながら、目を肥やした。行く先々で乏しい財布と相談しながら、着物や小物を買い調えていった。漠然としたものだったが、着物を次の仕事にできればと考え始めていた。
業界の旧弊を打破しようと
単身京都に飛び込む
しかし、着物を職業にするにも先立つものはお金である。無一文では仕事を始められないし、名産地回りもできない。
たまたま知り合いが神奈川で会社を営んでいた。頼み込んでそこに入社したが、会社はすぐ新規事業として和食店を始めた。
原さんは経験もないまま開店準備と店を軌道に乗せるべく仕事を任された。店長であり、給料は良かったが、ここで自衛隊にも引けを取らない大変な労働を体験した。朝5時に出勤し、日中は立ちっぱなしで働き、夜は閉店になった後も片付けや翌日の準備で、帰宅が2時。家に帰っても2~3時間しか眠るヒマがない。パジャマに着替える手間も時間も惜しくて、着の身着のまま玄関先でぶっ倒れるようにして寝入る生活だった。
こうした生活が5カ月間続き、どうせこんなに働くなら、自分が愛する着物の道に進むため、直接呉服屋で勉強したいと思った。29歳のとき、東京の老舗呉服屋に営業として入った。
産地を回り、職人と言葉を交わすうち、呉服業界は流通に問題があるのではないかと漠然と気づいていたが、実地に営業を体験しても、その思いは裏づけられた。業界の全部が全部そうではないが、一部の問屋や有名店は染めにも織りにも布地にも、それをつくる職人にも愛情を感じず、半ば惰性でお客に「いいものは高いんですよ」と繰り返し、呉服の販路をますます狭くしている。
原さんが考えたのは流通の圧縮だった。自分が直接数多くの職人と接触、発注することで、職人には多くの賃金を、お客さんには心底気に入った着物を、従来価格の3分の1程度で提供することができるのではないか。呉服屋は老舗の大旦那になってはならない。職人とお客さんの距離をもっともっと縮めなくてはならない。
原さんは33歳で呉服屋を辞め、いったん大分に帰って、ユニクロと和民で7カ月バイトをしてビジネスの仕組みを学んだ。その上で政策金融公庫から融資も受けて14年、前記の通り京都に「二十八」を創業した。
京友禅を専門にしたのは世界一美しいシルクの染であること、そして手描き友禅は20もの工程があり、全てにそれぞれ専門職がいて、お客さん単独ではまず完成品に漕(こ)ぎつけないことだ。さらに華やかな箔(はく)置きや刺繍(ししゅう)など、フォーマルには欠かせない着物である。
こうした京友禅を手に取ってもらうためには値を下げなければならない。原さんは従業員を雇わず、事務所をシェアオフィスで済まし、工程ごとの移動などを自分で行うことで実現している。お客さんはすでに300人に達したとか。呉服界に開けた小さな流通革命の穴であろうとしている。もたらそうとしているのは、京友禅職人の生活アップと伝統技芸の安定した継続である。本来は京都市が協賛しても不思議はない仕事だろう。
出典:Wedge 2019年3月号