「Wedge」2022年1月号に掲載され、好評を博している特集「破裂寸前の国家財政 それでもバラマキ続けるのか」記事の内容を一部、限定公開いたします。全文は、末尾のリンク先(Wedge Online Premium)にてご購入ください。
バブル崩壊や人口減少の中で、家計も企業も政府(政治)も、リスクに怯えるように安全運転に徹している。「挑戦」よりも「守り」に努め、不確実性やリスクに臨機に対処するよりも動かないでリスクを避ける。ミクロの善意が「合成の誤謬」となって縮小均衡を生み、資本主義のイノベーティブな駆動力が十分発揮されずに生産性が伸び悩む。
もちろん安全安心を望むことは自然なことだが、これが本当に成熟した日本社会の求める姿なのだろうか。運動会の徒競走で全員一緒にゴールさせた話が想起されるが、今こだわるべきはむしろ子供たち全員の足が遅くなっていることではないのか。
好対照なのがタンザニアの資本主義だ(小川さやか著『「その日暮らし」の人類学』、光文社新書参照)。彼の地では、不確実性が日々国民に降りかかる。政府には期待できず、頼れるは自分自身と親族・知人のネットワークのみ。リスクを分散し、常に少しでも稼げる仕事を探して挑戦する。失敗したら家族や知人に助けを求め、再起の機会を窺う。相互で情報や資金を融通し合って生き抜く姿はダイナミックだ。
この例は極端だろうか。確かに先進国では社会制度が整備され、法人化とともに資本主義が高度化している。だが、成長の原動力が自由とサーチとリスクテイクにある点は共通だ。一方、日本ではリスクを取ること自体がネガティブに捉えられる。起業やスタートアップを見ても、一部に萌芽は見られるが、欧米や中国、インドとは比較にならない。
かつて江戸時代の鎖国日本は数学ブームに沸き、和算も天文観察もからくりも最先端の独創性があったと言う(NHK『江戸の天才たち』、2021年11月21日放送)。太平の世は同じだが、今は何が違うのか。