2024年6月16日(日)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2022年4月3日

 スミスに関しては、昨年、21年に出した自伝「WILL」がベストセラーとなっており、複雑な内面について、よく知られるようになったということもある。スミスは、自伝の中で、人間の欲望の奥には「恐怖」があり、それがあらゆる人間の行動を動かしているというセオリーを繰り返し語っていた。ラッパーとして衝動や感情を表現するのも、コメディ俳優として客から笑いを取るのも、ドラマ俳優として等身大の人物の苦悩を演じるのも、全てこの「恐怖」という概念の理解がベースになっているというのだ。

 スミスは「フィラデルフィアの貧困地区」の出身である自分が「恐怖」を語ると、「家庭内暴力と貧困の話に違いない」と思われるかもしれないと述べつつ、それは間違いだとしている。確かにスミスの父親には横暴な面もあり、自分や兄弟は父を恐れていたのは事実だというが、一方で、父から学んだ多くの教訓や生活、家族への態度は自分の人格の中核となっていると書いている。

 一時は奔放な女性関係で夫婦の危機に陥るなど、愛憎半ばする家族への思いも書かれており、この自伝のヒットで「スミスという人は相当に複雑な人だ」ということが、一種の「好感」と共に受け止められていた。これが今回の事件の受け止めをより複雑にしている。

単純な割り切りができない側面も

 一方で、ロックに対しても、アカデミーとしては「頭が上がらない事情」がある。何といっても、05年と16年の2回、アカデミー授賞式のメイン司会者として、難しい大役を完遂しているからだ。

 特に05年というのは、まだまだ黒人の地位が確立していない時期だったし、またイラク戦争の遂行される中で左右対立が激しい時代でもあった。16年は正にトランプが予備選で旋風を起こしていた時期であり、同じように異様な世相であった。そんな中で、非難を浴びながらも、黒人であり、同時にリベラルな立場から「危ないジョーク」を連発して、それでも、2回とも何とか授賞式をまとめた功績は、非常に大きい。

 このアカデミーの両者への「借り」があるという要素に加えて、2人のこれまでを知る者からすると、今回の事件については単純な割り切りができないという問題もある。

 まずスミスの行動は、ジェイダ・ピンケット・スミス夫人の名誉を守るために衝動的に動いてしまったわけだが、スミスという人物の複雑さに加えて、この夫婦の乗り越えてきたローラーコースターのような紆余曲折を知る者には、この2人ならではのドラマとして見えてしまうということがある。


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