2022年12月10日(土)

脱「ゼロリスク信仰」へのススメ

2022年8月8日

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唐木英明 (からき・ひであき)

東京大学名誉教授

1964年東京大学農学部獣医学科卒。農学博士、獣医師。東京大学農学部教授、日本学術会議副会長、倉敷芸術科学大学学長などを経て現職。著書に『不安の構造 リスクを管理する方法』(エネルギーフォーラム新書)。

医療で活用されるプラセボ

 薬だけでなく、医療にもプラセボ効果が存在する。例えば、喘息の患者に吸入薬投与、プラセボ投与、または針のまね(針で皮膚をつつくだけ)を行った結果、肺機能が実際に改善したのは吸入薬だけだが、プラセボと針のまねを受けた患者は、吸入薬と同程度まで呼吸が楽になった。

 背骨の痛みが激しく歩行が困難な患者の半分に椎体形成術を行い、残りの半分は皮膚を切開するだけで背骨には触れないに手術を行ったところ、両者とも同じ改善効果を示した。その他、多くの例が報告されている。

 プラセボに治療効果があることは多くの医師が実感している。米国での調査では、内科医とリウマチ医の約半数がプラセボを定期的に処方しているという。もちろんそれは、必ずしも医薬品を必要としないのに薬を飲まないと不安に陥る人や、医薬品とプラセボの効果がほとんど変わらない症状の場合である。

 このような多くの研究から、プラセボ効果が現れるのは心理効果が大きい痛み、不安、睡眠障害、疲労感などの症状であり、コレステロール値や皮下脂肪率を下げるなど心理効果が働きにくい症状には効かないことも分かっている。骨折やがんを治癒することはないけれど、痛みは軽減するのだ。

 介護現場で注目されているのは、患者の体に優しく触れる治療法だ。これだけで痛みの軽減、ストレスの緩和、認知症の改善まで、さまざまな効果が観察されている。これもまたプラセボ効果の利用なのだが、そのルーツは何と動物の世界にあるという。

 動物はグルーミングと呼ばれる毛づくろいをする。その目的は寄生虫を取り除いたり、汚れをとったりすることの他に、仲間同士のグルーミングでお互いの緊張感をなくし、群れの一体感を強化すると言われる。

 また生理学の研究から、グルーミングが脳内でβエンドルフィンを増やすことが分かった。この物質はストレスを緩和し、精神を安定させ、痛みを緩和する役割を持つ。動物はグルーミングで病気やけがの苦痛や不安を癒しているのだ。人間の体に触れることが治療効果を示すのは動物のグルーミングと同じだったのだ。

プラセボはインチキか?

 2005年に英国で「スモールウッド報告書」が発表された 。英国チャールズ皇太子が後援して作られたこの報告書は、ハーブ療法、カイロプラクティク、針治療、ホメオパシーなどの伝統医療の効果を科学的に検証し、これらは不安、ストレス、うつ病、疼痛、悪心などに効果があること、それはプラセボ効果だが、これを医療に利用することは英国の医療費削減に役立つので、治療法として公認すべきと提言したのだ。

 これに対して、世界の医学界から反対運動が起こった。これを代表するのが、サイモン・シンとエツァート・エルンストのベストセラー『代替医療のトリック』だ。何も説明しないで飲ませるとプラセボは何の効果もないが、施術者が「有効な治療法です」とうそをつき、患者がこれを信じると初めて効果が出る。彼らはこれを「患者をだます行為」だから倫理上許されないとして、伝統医療をインチキと断定している。

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