なぜ私は、現代の山師と言われるのか?
私はよく現代の山師と呼ばれることがある。山師とは一体何か。辞書をひくと「鉱山の採掘事業を経営する人」といった意味の他に「他人を欺いて利得を図る人」「詐欺師」なんて書いてある。
さすがに苦笑せざるをえないが、一般的なイメージとしてはそんなところだろう。ただ、鉱山を探査するだけの人間のことを山師とは呼ばない。現代の鉱山開発においては、仕事としての科学的な探査をする人がいるけれども、それから先の開発には資金をかけなければならない。
そういった状況のときに活躍するのがまさに山師の出番なのだ。例えば個人、あるいは一つの会社で鉱山を探査してそこに資源があることがわかったとしよう。そして一定期間、開発権限を持たせてもらう。でもそれだけでは開発資金はどこからも出てこない。多少は大げさにアピールをしなければ「よし、それではやってみよう」と開発資金を出してくれる投資家なんて世の中にそうザラにはいないのである。
もちろん、嘘をついてはいけないけれども、投資を誘導するに足るトークは必要になる。多少大げさに言うべきである。「ユーラシア大陸のどこそこにレアメタル鉱山が見つかりました。この先どのぐらい出るかはわからないけれども、とにかく資源の兆候としての存在量はかなりのものと確信をしております」などと大げさに話す。
鉱山開発は本質的に大ギャンブルである側面があるので、私はこのギャンブルにこそ男が一生の仕事として賭けるに足る喜びやロマンがあると思う。でも私の全財産をかけたとしても必要な開発資金の数%にしかならない。
とすれば残りの数十%を誰かに一緒に開発―勝負してもらいたい。そうしなければこういった大事業はできるものではない。そのときに「一緒にやりましょう」と、大げさに言わなければ興味を持ってはくれない。フィージビリティスタディはそれからの話である。
科学的な分析をしたうえで、事業に取り組む。しかし、その入り口すら探そうとしないのが日本の常であるから、私はその山師といわれる、いわば起爆剤、または呼び水といった概念で仕事をしているのである。
まず探検してそこで資源を見つけ、そこから持ってくるということが資源開発の仕事であり、そこには山師といわれる人たちが必要になってくる。商社の仕事はいってみれば、「探す、見つける、持って来る」に加えて多少の山師的側面がある。商社の仕事の本質ではないだろうか。