厚労省が推奨する対策の多くは無意味あるいは効果が小さいのだが、このことを厚労省自身が明らかにしていない。だから誤解が広がることはある程度は仕方がないのだが、感染者が出たことをもって対策に不備があったと断ずるメディアの論調はあまりに単純すぎる。
日本中がマスク、手洗い、ワクチン、3密回避の努力を続けたにもかかわらず、これまでの7回の流行を止めることができなかった。最も厳重な管理が行われていたはずの岸田文雄首相をはじめ世界の首脳が次々感染している。これらの事実は、現在の対策では感染は防ぐことができない現実を明確に示している。このことを少なくともメディア関係者は理解すべきである。
それでは完全な感染防止対策とは何だろうか。踊り手にも、その家族にも、見物に来た観光客のなかにも、自分が感染したことに気が付かない無症状や軽症の感染者がいて、知らない間にエアロゾルを振りまいている。だから感染ゼロを目標にするとなれば、祭りを中止して、「自宅から一歩も出てはいけない」という中国と同じ対策を実施せざるを得ない。
「コロナ共存」を険しくするな
幸いなことにコロナの重症化率も死亡率も減少し、コロナが弱毒化していることが明確になっている。だからこそ世界各国は対策を緩和してウィズコロナに大きく舵を切った。
岸田内閣も重い腰を上げて、やっと入国制限の緩和に乗り出し、観光客誘致による経済活性化を実施することになった。しかし、今回の「阿波踊り感染報道」を見ると、メディアがその前途を険しくしていると思わざるを得ない。
メディアの問題点の第1は、「対策を守れば感染しない」と信じる単純さである。感染をゼロにできる対策は中国のような都市封鎖しかないことを明確に認識してほしい。第2は「メディアが世論を作る」という自覚と責任感の欠如である。私たちはメディア報道から情報を得て、判断する。
メディアが「感染することは悪」という論調を拡散し続ける限り、それが世論になる。踊り手がアンケートに「現実に感染者が出たことは、本番を迎えられた事への気の緩みがあったのかもしれません」と自戒の念を述べている。彼らの責任ではないにもかかわらず、このように言わざるを得ないのは、感染したのは自分たちの責任と「信じさせられて」いるからだ。コロナ発生直後にはこの「差別の風潮」が大きな問題になったのだが、それは現在も全く変わっていない。
ウィズコロナとは感染者との共存を社会が許容することである。メディアには「努力すれば感染は防止できる」などという神話から脱却して、国民がウィズコロナについて真剣に考える一助となるような報道と解説を心から希望する。