1949年の建国後、毛沢東は国境を閉じてしまった。中国人の国内外の移動を禁じ国民を厳格に管理することで強く豊かな国作りを目指そうとしたからである。だが過剰なまでの政治偏重路線が災いし、結果として中国は人口過多の巨大な貧乏国という袋小路から抜け出すことは出来なかった。この間、海外においては華僑(中国公民)から華人(在住国国民)へと法的地位を変更することを余儀なくされる。法的には中国公民ではなく外国籍となったわけだ。
閉じられた国境からの転換
鄧小平は「木は動かせば死ぬが、人は動かせば活き活きする」との箴言(しんげん)に倣うかのように、30年ほどに及んだ毛沢東の政治を逆転させ、1978年末に国境を開く方針を打ち出した。対外開放である。
この時、国内での移動は黙認したが、国外への移動は認めなかった。それというのも、対外開放の狙いが、毛沢東時代の中国が持ち得なかった豊富な資金(カネ)と工場設備・先進技術(モノ)を中国に呼び込むことにあったからだ。華人系を含め海外から持ち込まれたカネとモノに対し、中国は内陸農村部に滞留していた余剰労働力(ヒト=失業者)をタダ同然の人件費で提供したわけだ。
広東、福建の沿海部に設定された経済特区に海外からはカネとモノが持ち込まれ、内陸部からは国内での移動が黙認されヒトが流れ込んだ。余剰労働力は移動が可能になったことで労働力=カネとなって還元され、貧しかった内陸農村部を潤していった。
こうしてヒト・モノ・カネが合体し動き出すことで、中国は「世界の工場」へと大変貌を遂げることに成功した。だが、共産党政権が中国人の国外への移動を公然と後押しすることはなかった。つまり王朝時代であれ共産党政権であれ、中国の歴代中央政権は中国人の国外への移動を基本的には禁止していたのである。
ところが江沢民はそうではなかった。「走出去」を打ち出し、中央政権の最高権力者として初めて公式に国民に海外進出を呼び掛けることによって、王朝以来の伝統を突き破ってしまった。江沢民は「走出去」によって歴代皇帝のみならず「偉大なる領袖」の毛沢東はもちろんのこと、「最高実力者」の鄧小平ですらなし得なかった空前の方針転換を成し遂げ、中国人に海外への移動を強く促す役割を果たしたのであった。
こう考えると、中国の「全球化(グローバリゼーション)」は江沢民が「走出去」を打ち出すことによって拍車が掛かった。胡錦濤政権以降の中国の海外における存在感拡大の主たる要因は、やはり「走出去」に求められる。
欧米諸国の強い批判をものともせずに習近平政権が強行する一帯一路にしても、「走出去」がもたらした人的な基盤整備が大前提になっていると考えられる。であればこそ、江沢民を一帯一路の〝生みの親〟と位置づけることも可能だろう。
海外の華人社会に見られる親中路線への傾斜、新しい中国人相互扶助組織の乱立、海外展開する中国企業の増加、さらには一帯一路など。現在の国際社会が直面する難題の淵源は、じつは江沢民の「走出去」にあったと考えられるのだ。
「走出去」でヨーロッパに広がった中国人
対外開放が本格的に動き始めた1980年代半ば以降、中国人を非合法で海外に送り出す蛇頭(スネークヘッド)の暗躍が内外マスコミを賑わしたことがある。
ここでイタリアを例に、「走出去」前後の状況を見ておきたい。
イタリア西北部の稲作地帯ピエモンテでは、1980年代末に紅稲と呼ばれる雑稲が増殖し、米の生産が急激に低下した。紅稲除去に便法はなく、人力で1本1本を丁寧に抜き取るしかない。だが肝心の単純労働力は不足するばかり。
苦境に立った農村に大量の中国人がやってきて、イタリア農民では耐えられそうにない劣悪な環境にもかかわらず人海戦術で紅稲を抜き取り、いつしかイタリアの米作を担うこととなった。大量の中国人の単純労働によって、イタリアの米作りは息を吹き返す。