陪審員が選任された後、検察官および弁護人による冒頭陳述、そして主張・立証活動が展開される。最終弁論が行われた後、適用される法についての説明を裁判官が行った後、陪審員による評議が行われる。陪審員が下す評決(有罪か無罪か)は、全員一致でなければならない。もし陪審が評決に達することができなかった場合には、新たな陪審員を選出して公判をやり直すことになる。
有罪判決が下される(または被告人が有罪答弁を行う)と、量刑手続きに移行する。連邦及び大半の州では、量刑手続きは裁判官のみによって行われる。この第一審の判決に不服のある被告人は上訴することができるが、控訴審以降は法律判断のみを争う法律審となり、事実認定について争うことはできない。
以上が基本的な刑事訴訟の流れだが、実際にはこのような複雑な手続きを伴う公判はあまり行われていない。大多数の事件が被告人による有罪の答弁で決着し、公判を行わずに司法取引(答弁取引)によって処理されているのだ。
具体的には、2010年以降、公判の開催率は3%未満となっている。最終的に量刑を下すのは裁判官だが、裁判官も司法取引の結果を尊重するのが通例である。
米国の刑事ドラマは、陪審員がいる訴訟で山場を迎えることも多い。また、ほぼ全てのシーンが陪審評議で構成されている『12人の怒れる男』という映画は、米国の訴訟や民主政治を理解する上での最良の教材として紹介されることもある。
日本で裁判員制度が導入された時、米国の陪審員制度としばしば対比されたことを覚えている人も多いだろう。だが、実は陪審を用いた裁判が行われるのは稀なのだ。
民主主義の理念に沿った陪審制
では何故陪審制は米国の刑事訴訟を象徴するものとして位置付けられているのだろうか? それは、建国の理念とも関連し、民主主義を体現する意味を持つと考えられているためだ。
刑事法は社会秩序の維持を図るために政府が人々の活動を取り締まるための法律だが、秩序維持を根拠として私人の活動を恣意的に取り締まる危険性を除去することが重要になる。例えばフランス革命前のフランスでは、塩の専売制が導入されて塩税が課され、戦費調達を目的として塩の購入が国民に義務付けられていた。それに違反した者は見せしめとして厳罰を科されることもあった。いうなれば、あらゆる人が国家によって犯罪者とされる危険があったのだ。
今日でも、法の支配の原則が貫徹していない国では、政治的考慮に基づいて敵対勢力を犯罪者として訴追し、投獄することが行われている。このような事態を想起すれば、犯罪者の権利を守ることは全ての人の権利を守ることにつながる。
不当な事態を防止するために、犯罪者と見なされた人が不当な処分を受けることがないよう、合衆国憲法の修正条項にいくつかの規定がなされている。その中の修正第6条で定められているのが、陪審裁判を受ける権利である。国家権力による不当な訴追を防止するために、一般市民が判断を下すのが陪審制の目的とされているのだ。
起訴の党派性と大陪審の意義
陪審員は、有権者名簿などを基に陪審員抽選機を用いて無作為に抽出される。欠格事由(その管轄地域に1年以上居住している18歳以上の米国民でない場合、英語の読み書きができない場合、英語を話すことができない場合、精神的・身体的疾患のため陪審員の任務を果たすことができない場合、係争中の事件または重罪の前科がある場合)がない場合は有資格者となる。
米国の陪審には大陪審と小陪審があるが、前者は検察官による捜査を基に起訴するか否かを決定するのが役目である。連邦の場合は大陪審の人数は16~23人とされており(小陪審の12人よりも多いので大陪審と呼ばれる)、そのうち少なくとも12人が賛成しなければ起訴状を発布することができない。
州では連邦と同様の場合もあるが、人数を少なくして、その3分の2とか4分の3というように特別多数の賛同を得た場合に起訴を行えるようにしている所が多い。審理は秘密裏に行われ、検察官とその補助職員、陪審員は裁判所の命令がある場合などを除き、提出された証拠等を外部に明らかにしてはならない。