2024年11月22日(金)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2023年4月29日

 その政策を持たずに、とにかく自分の人柄を売り込むとか、自分が足を運んだという意味不明の誠意の押し売りをして歩くというのは、選挙運動ではない。なぜならば、間接民主制とは政治家の人格を信じて丸投げをするのではなく、あくまで有権者の生活を左右する政策論争の代理人として、政策本位で候補を選別するものだからだ。

政権選択選挙になっていない

 2点目は、そもそも選挙で政策を競う仕組みができていないということだ。何よりも、現状では統治能力のある勢力を2セット用意することができていない。従って、国政選挙が本来の意味での政権選択選挙にならないということがある。

 まず野党の側に、具体的な問題が多すぎる。まず、保守系野党と、左派系野党に分裂している中では、野党が力を合わせて政権を構成することが、そもそも不可能という現状がある。

 けれども、有権者としては政治に不満がある場合は、とりあえず野党に投票して「政権にお灸を据える」ことしかできない。仮にそうした投票行動が多く、与党が大きく議席を減らすと内閣は退陣する。けれども、野党が多数を取って組閣することは不可能であり、結局は与党内で別の政治家が総理総裁になって新内閣を組閣するだけだ。

 反対に、第二次安倍政権のように、政治運営に自信のある内閣の場合は、解散総選挙に訴えて勝利することで政権を強化することができる。だが、その場合も、選挙で野党を負かすことで、自民党内の基盤を固めるという間接的なことをやっていたことになる。つまり、与党内にリーダーを選ぶための本格的な予備選挙のシステムがないので、こういう回りくどいことをしているのだ。

 その結果として、まず与党か野党かを選ぶ選挙が、政権選択にはならない。野党には政権担当能力がなく、政府批判しか期待がされない。

 また野党が善戦しても、自民党内で総理の顔が変わるだけだ。そうなると、システムそのものとして、選挙が真剣な政策の選択にならないことになる。

 制度ということでは、選挙が公示されて選挙戦がスタートすると、メディアが公選法を恐れて、政治に関する活発な議論を控えるという傾向がある。現在のシステムでは、例えば選挙期間中にある候補が特別な政策提案を行い、それが画期的であっても、メディアが大きく報道することはない。とにかく、各メディアは、各党に文句を言われないように「公平に報じる」ことしか考えておらず、本質的な政策の相違を指摘して有権者に責任ある投票行動を促すような報道はできない。

 その結果として、どういうことが起きるかというと、選挙期間中の遊説というのは、政策論争の真剣勝負にはならない。例えば、各党の党首が遊説期間中の遊説で、何か「画期的な発言」をしたという報道は、あまり聞いたことはない。各局の政治部記者も、いちいち首相や党首の遊説に全部付き合うことがないのはそのためだ。


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