2024年7月22日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年5月28日

どれほど米を強制収容して三河一向一揆が起きたのか

 そんな訳でそれなりのマネー力を備えた家康殿の9人(?)以下は、桶狭間の戦いを経て岡崎城の独立を取り戻し、織田信長との同盟を実現させて今川氏真と決別。西三河各地を攻略していくのだが、そんな中で永禄6年(1563年)になって一大危機を迎える。

 「三河一向一揆」だ。

 大河ドラマでは家康が本證寺に年貢をかけ、堂内の籾米をむりやり持ち出してしまったのがきっかけとなっているが、史料でもお寺が変わったりするものの、家康側が真宗の寺内の穀物を奪ったり、寺内に逃げ込んだお尋ね者を捕らえるなど、「守護不入」(寺内には領主の権力が及ばない)の特権を侵犯する振る舞いがあった為に起こったとされている。

 家康さんは、西三河の統一を急ぐあまりそれまで真宗寺院に与えられていた特権を一方的に無視して怒りをかってしまったんですな。

 この一乱、『信長公記』では「三河国端に土呂・佐座喜・大浜・鷲塚とて、海手へ付いて然るべき要害、富貴にして人多き湊なり。大坂より代坊主入置き、門徒繁盛候て、既に国中過半門家になるなり。無二に彼一揆御退治なさるべきの御存分にて」と記されている。

 前回紹介した土呂本宗寺、佐崎上宮寺、それに鷲塚願随寺、松平氏の大事な直轄領・大浜の西方寺、さらには岡崎勝鬘寺など豊かな真宗寺院が野寺本證寺に呼応して一斉に挙兵し、大変な事態に立ち至ってしまったのだ。

 では、家康側はどれぐらいの米を強制収容してしまったのだろう?

 『三州本願寺宗一揆兵乱記』という史料によれば、家康側が穀米を押収した場所は本證寺ではなく佐崎の上宮寺で、家康自身がモチ米100俵を豊作の年に返すから貸してくれと申し入れたことになっている。まぁ、押し借り(むりやり借りること)ですな。

 モチ米はおこわにしても餅にしても腹持ちが良い上に形崩れしないから携帯性も高く、兵糧食として必須。だから家康側も戦時徴発としてモチ米に手を出したのは当然かも知れないが、1俵当たり2斗の計算で考えると200斗は20石。この時代のモチ米と普通の米(うるち米)との価格差はほぼ無い(実際には年によってどちらかが高くなったり安くなったりはするのである)として、現代の価値にすれば90万円になる。

 たかが90万円が大規模な乱のきっかけになるとは、と思われるかも知れないが、これに似たことは本證寺でも勝鬘寺でも起こっていたはずで、この史料にも本證寺でも騒動が起こったこと(というよりこちらが記事のメイン)として家康側の武士が本證寺境内に馬で入ったところ、何かに驚いた馬が日干ししていた収穫したての穀米を蹴散らしてしまったのが原因、などと書かれており、これも本当は穀米を押収しようとしたのだと思う。だって、お寺には昔から境内に入る前に馬から下りることを指示する「下馬石」ってあるのに、それを無視して乗り入れたんだろうから、はなっから馬で運び出すつもりだったんだろう。

 こんな調子であちこちの真宗寺院から徴発して回ったとしたら、その総額は何百万円分にもなる。


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