2024年4月28日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年5月28日

実は徳川家として重要な役柄・阿部定吉

 阿部氏は徳川四天王や大久保氏、本多正信らに比べると家康の天下取りの過程でそれほど目立つ存在ではない。

 阿部定吉は家康の祖父・清康に忠誠を尽くしたものの、彼の息子が清康を殺してしまうという大罪を犯したからだ。定吉は引き続き広忠に奉仕したが、後継者を作らず死去したため彼の阿部家は断絶してしまう。

 だが、定吉が罪に連座しなくて済んだことと、一族の正俊から始まる家系(正勝系)はその子孫が江戸幕府の老中に就いている。その中では幕末の攘夷開国の波乱を生きた阿部正弘が有名どころだ。

 これで分かるように、阿部氏は徳川家にとって無くてはならない柱石だった。

 阿部一族の正俊は三河国あこたの領主だったという。あこたがどこかは当の阿部一族の子孫にも分からなかったらしいが(阿部家伝)、室町時代中頃に築かれた阿部氏始祖の居城・小針城は岡崎城の北西にあたる。あこたもこのあたりだろうか。

 小針と南西の西大友の間にはこの時代矢作川の支流が流れており、小針はこの支流の西岸を臨む台地の上にある。

 岩津(矢作川上流からの流通物資の集散地)と安祥の中間に位置するから、岩津から陸路で安祥や知立方面へ搬送される物資が経由する。

 しかも小針は崖上の台地だから、ここを通過する物資は崖下で一旦滞留するはずだ。滞留するところには宿や休憩所、食事などの需要が発生する。

 阿部一族はその余沢に浴し、栄えていたのだ。隣の西大友には真宗寺院の玉泉寺があるのもその豊かさによるものだろう。

 のち阿部氏は松平信光(家康の六代前の御先祖さま)が安祥城を手に入れる際に臣従し、さらに家康の祖父・松平清康が岡崎城に入った際に小針城を廃して六名に移った。

 六名に移ったのは、岡崎を牽制する岩津-安祥ラインに参加して協力したご褒美か、とも思うが、ご褒美である以上は旧領の小針よりも良い条件の土地でなければならないのは当然のこと。

 実際のところ、六名は東海道の矢作川の渡し場で、六名村には鳥居氏の領地もあった。となれば、これはリッチな土地であったことは間違いないところ。

 清康以降、六名は岡崎城の南の守りとして重要視されたから、その地に移った阿部家がいかに信頼されていたか、またいかに経済的に潤ったか、誰の目にも明らかだ。阿部定吉と阿部一族もまた、セレブな生活を送る小綺麗な男たちだったに違いない。

 この時期より少し前の大永6~7年(1526~27年)、連歌師の宗長が京・駿河を往復しているのだが、三河・尾張を通過する際に刈谷(岡崎の西)の水野氏(家康の母の実家)の屋敷に投宿している。そこで宗長は合計1500疋のお餞別を貰い、「これまでの献金は1万疋にも及ぶ」とその財力に驚嘆することになる。1500疋=15貫=150万円弱、1万疋=100貫=1000万円弱と考えると、確かに半端なマネー力ではない。

 刈谷で知多半島の流通を押さえていた水野氏がこれほど豊かだったのだから、同様に流通の要衝を本拠としていた彼ら家康家臣団もかなりのリッチピープルだったことの傍証となりえるのではないだろうか。


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