はじめ塾の歴史は父・重正が1937年(昭和12年)3月、東京の杉並に寄宿寮「一誠寮」を立ち上げたことにさかのぼる。だが、当時は戦争による影響で、食料事情もひっ迫する中、小田原に疎開することになり、ここに「はじめ塾」が誕生したのである。
はじめ塾は「塾」という名称がついているものの、教育産業とは一線を画している。大手塾のような財力もなければ、CMや広告などの告知宣伝力もない。最も頼りになるのは、塾生や保護者の口コミである。手前味噌になるが、それでも、全国から入塾希望者が後を絶たないのは、はじめ塾での「生活」における実体験で培った問題解決能力や、親元を離れて同世代・異年齢の仲間たちと「生活」をともにする中で身につけた「生きる力」を発揮して、子どもたちが社会に羽ばたいていくことが支持され、共感を得ているからではないかと思う。
現在は、息子・正宏が三代目塾長となり、親子三代、激動の戦前・戦後の時代を歩んできた。80年以上にわたって、はじめ塾の教育理念と哲学は、揺らぐことなく継承されている。
人間の成長に必要な
「感」・「勘」・「観」
はじめ塾の教育の根幹には、「三つのカン」すなわち、「感」・「勘」・「観」を育てるということがある。
一つ目は、感じるの「感」である。これは、0歳から3歳くらいまでに生活のさまざまな場面を通じて育つものである。まだ言葉を持たない時期に、子育てに直接関わっている親などから受ける刺激を、感覚器官を通じて「感」じとして、身につけていく。この間、日本語をシャワーのように浴びることで、子どもたちは「この社会で生きていくためには『日本語』を使わなければならない」ということを肌で「感」じ、学習している。だから、自然と日本語を話せるようになるのだろう。
二つ目の「勘」は、いわゆる動物的な「勘」である。人間も動物だから、誰もが本来、「勘」を備え持っているが、これは、特に9歳前後までの間に育つものである。例えば、子どもたちが外で遊ぶ時の危険を察知する能力であったり、虫をたくさん捕るために最適な場所がどこかを探り当てたりといったものである。
「勘」は、放っておいても、自然と育つ能力である。だが、最近では、大人たちのエゴによって、「勘」を養うべき時間を別のことに使い過ぎている。例えば、小学4年生前後から子どもを学習塾に通わせ、知的教育のほうにウエイトを置く親が多いことはその典型である。「今日は〇〇の習い事」のようにびっしりと予定で埋められるケースもある。
要するに、知識と技術をたくさん身につけさせられており、子どもにとって必要な「すき間時間」がないのだ。
「勘」とは、自由な遊びの中で育まれるものである。私は終戦の年の生まれであるが、子どもの頃は地域にガキ大将がいて、先輩後輩といった異年齢集団の中で、遊びを通じて「社会」というものを学んだ。鬼ごっこや缶蹴りごっこなど、遊びの中で、勝ち抜き、英雄になるためには、その場その場で、さまざまな「決断」が必要である。また、木登りや川遊びでも「もうこれ以上やったら命が危ない」ということも遊びの中で体得した。もちろん、痛い思いをしたことも多々ある。見方を変えれば、「勘」とは、人生のおける「決断力」ともいえる。
台所仕事もそうである。料理に必要な目分量や火加減、水加減、塩加減といった「勘」が育まれる。包丁を扱うのは、危険予知の「勘」にもつながる。はじめ塾で、台所仕事を重視しているのはこのためでもある。
ところが、現代の子どもたちは、外で遊び、自然と戯れる機会が激減している。また、共働き夫婦の増加で、親子で台所仕事をする機会も減り、「勘」を体得できずに大人になるケースが見られる。
「勘」は、論理的思考ができるようになると鈍る傾向がある。理屈で考えてしまうからだ。不登校や引きこもり、職場に馴染めないなど、行き詰まっている子どもや若者たちと接していて私が感じることは、この「勘」が明らかに不足していることである。彼らは「理屈」は言うが、決断する力がない。私はそうした子どもたちには、理屈を言うよりも「思い切ってやろう」と声をかけるようにしている。「思い」を切る、とは、「考える」ことをやめて、やり切ることだ。そうした意味で、この二つの「感」と「勘」は、人間が生きていく上での土台だといえる。