三つ目は、観察する「観」である。これは、「感」と「勘」を補うものでもある。「観」を育むことで、物事の道理や仕組みが分かるようになる。つまり、「見通しが利く」「先が読める」「周囲の状況が分かる」ことにつながり、それは行き詰まらないことにもつながる。
「観」とは、14歳前後の思春期になって「自分とはいったい何者なのか」といった疑問を持ち始めることによって、育まれていくようなものである。
「観」が育つ時期は、「何歳まで」ということはなく、それこそ、死ぬまで育ち続けていくものであり、決して「手遅れ」というものがない。したがって、論理的思考が活発になる10歳を過ぎた子どもであれば、一生懸命勉強して知識を身につけ、自分で興味のあるものをどんどん調べて発展させていく経験をすることが重要だ。教えられる受動的な勉強から、自ら行う能動的な勉強へと質の転換を図り、「観」を育てていくことが重要である。
学校教育を変えるには
昭和の価値観の転換が必要
正解のある問いに対して、素早く解答し、受験という名の戦争を勝ち抜き、一流企業に就職して安定した人生を送るといったことが、昭和の時代から続く一つの価値観であった。その結果、近年では、一流大学に入学するために、高校、中学、小学校と、受験年齢もどんどん低年齢化している。企業は、建前では「学歴不問」を謳いながらも、本音では、優秀な人材=一流大学出身という評価の基準が根強い。これを正していかない限り、日本の教育を抜本的に変えていくことが難しいのは確かである。少子化による影響もあるのか、親たちの不安を煽る傾向がますます強まっている学習塾など、教育産業の宣伝手法にも留意が必要だろう。
だが、私は、大人の価値観を変えていくことで、日本の義務教育は大きく変わる可能性を秘めていると思っている。なぜなら、現在の義務教育には、二つの素晴らしい面があるからだ。
一つは、さまざまなタイプの人間がいる集団生活を送る中で、日々、ストレスを感じながらも、他者との折り合いや協調などを学ぶことを通じて、心身共に鍛えられることが挙げられる。はじめ塾にやってくる不登校の子どもたちの中には、人に対する免疫力や体力がなく、すぐにストレスを感じて何もできない子どもが少なくないが、義務教育の9年間はこれらを体得できる貴重な時間になる。
もう一つは基礎学習を母国語で学べる環境があり、算数の九九や漢字など、一定の「読み・書き・そろばん」の能力があることだ。教員不足など、厳しい状況に直面しながらも、公立小中学校の先生たちの頑張りによって、今もなお、日本は世界の中でも高い教育水準を保てている。はじめ塾でも、小学生は、独自のワークショップを通して「読み・書き・そろばん」の基礎学習に重きを置いている。
こうした義務教育の利点を土台にして、①家庭教育、②社会教育、③学校教育の3本柱をバランスさせる必要がある。誤解があるが、教員は学校の中の専門家であって、人生全般の専門家であるとは限らない。現在の学校は、①・②も含めて、全てを抱え込み過ぎている。
現代の日本社会は少子高齢化の影響もあるのか、中高年が社会の中心を占め、あらゆる組織が整理整頓されすぎて、柔軟性を欠いた社会になっている。しかも、画一的な教育でみんなが同じような体験をしているから、個々の独自性が非常に希薄な社会になっている。当然のことながら、子どもの能力は画一ではなく、多様である。左右両側を歩く子どももいれば、真ん中を歩くことが好きな子どももいる。伸びしろだって、人それぞれ違う。大人の関わり方次第で、才能が開花し、目覚める子どもは実に多い。
われわれ大人たちは子どもたちの「生きる力」に必要な「三つのカン」を育む機会を奪っていないか、今一度、自問自答する必要があるだろう。(聞き手/構成・編集部 大城慶吾、鈴木賢太郎)