2024年3月4日(月)

オトナの教養 週末の一冊

2023年10月28日

石油輸送船団の保護を拒否した海軍

 しかし、ここで実に奇妙なことが起こった。最重要の石油を、南方から日本本土まで無事搬送するための海軍タンカーの割譲と船団護衛役を、日本の海軍が忌避し続けたのである。

 本書の読みどころは、この知られざる史実をさまざまな方面から掘り起こしたことだ。

 日本軍は緒戦から半年足らずで、マレー半島、ボルネオ、ビルマ、ジャワ島、フィリピンと瞬く間に南洋資源地帯を制圧した。

 敵が弱小の植民地警備軍だった故の「連戦連勝」だが、日本軍は勝因を分析せずに「欧米恐れるに足らず」と自己陶酔してしまった。

 石油を運ぶタンカーは開戦時に計113隻あった。A船(陸軍徴傭)11隻、B船(海軍徴傭)54隻、C船(南方資源の内地還送や民需)48隻である。当初、戦争第1年目の南方石油の内地還送見込みは30万キロリットルだったが、実際は170万キロリットル。

 当然、C船が足りないので、戦時標準船の新建造までB船タンカーで間に合わせる計画だった。ところが海軍は、保有するタンカーの割愛に一切応じようとしなかった。

 海軍の1万総トン級の給油運送艦なら、1隻が門司・シンガポール間を15往復すれば年間27万キロリットルを運べる。10隻投入すれば270万キロリットルですぐに還送完了。しかも高速な海軍艦は米軍潜水艦を振り切って航行できる。

 それにもかかわらず海軍は提供を拒否。それどころか、A・B・C船に含まれていなかった民間外航タンカーの徴傭さえも要求した。

南方産石油地帯の貯油タンクが満杯に

 こうしたことから、昭和18年の5月中旬には、日本が奪取した南方産石油地帯の貯油タンクが満杯になり、現地では送れない灯油や軽油を燃やしたり、川に流したりもした。

 どうしてそんな異常事態が発生したのか?

 どの国でも、陸軍は攻略地の防衛に熱くなる防衛志向、海軍は反復攻撃を好む攻勢志向と方針が異なっているが、日本の海軍には特別な思い込みがあった、と著者は指摘する。

 最大のものは、航空機戦の重要性は認識しつつも、ここ一番では(日露戦争で連合艦隊がバルチック艦隊を撃破したように)主力艦による艦隊決戦で勝利を得たい(戦争の勝敗を決したい?)、という強い思いである。

 従って、輸送船団への参加やその護衛といった任務は余りに「防衛的」であり、誇り高い海軍軍人として気乗りがしなかったのだ。

 その結果、門司・シンガポール一貫航路に護送船団が運航を開始したのは昭和18年8月から(海上護衛総隊の新設は同年11月)。それも、小船団で最小限の護衛艦をつけての運航だった。

 昭和17、18年の燃料事情はまだよかった。もしも、18年中に、海軍のB船タンカーも動員して日本内地の貯油タンクを満杯にし、航空機用ガソリンもドラム缶で十分貯蔵していたら、悪夢のような昭和19年からの惨状はかなり違っていたに違いない。

 なせなら、米軍は18年9月から、改良魚雷によって日本のタンカーを最優先に狙い撃ちするようになったからだ。徴傭された民間船員6万6000人中の3万1000人が死亡したが、その数は大幅に減ったはず(大体、日本の戦没者310万人中の281万人、90%以上が昭和19年以降に集中している)。

 勝敗の帰趨(きすう)が決していた昭和緒18年末段階で、万が一にも日本が潔く白旗を揚げていれば……。

 中国大陸での陸軍の残虐行為は広く知られているが、身内意識と特権意識に凝り固まった海軍の「国家目的(石油還送)」に反した一連の行為を、われわれ、後世の者はきちんと押さえておかなければならない。

 見回せば、現在の日本人も「夢よ、もう一度」と成功パターンを追いかけ、東京五輪で禍根を残し(札幌冬季五輪はどうにか延期したが)、大阪・関西万博で多くの壁に突き当たっている。旧ジャニーズ事務所の問題も、強い同族意識と無言の圧力、周囲の忖度から生じており、摘出された忌まわしい人権侵害も、歴史を振り返れば見覚えがあるものだ。

 日本人は本当に変われるのか? 失敗の戦史から学べることは、まだ多い気がする。

   
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