ニューヨーク美術学校で教えを受けたロバート・ヘンライはもともとフランスのマネやドガの影響を受けた写実画家であったし、ホッパー自身も1906年から1910年にかけて三度にわたって、パリを中心に欧州各地を美術遍歴している。イラストレーターから転じて不遇をかこったこの頃の作品は、印象派の影響が強く漂うパリの街角や風景などを描いたものが多く、当然そうした作風は「二番煎じ」として高い評価を得ることはなかった。
ヘンリー・ジェームズが「大聖堂もなく、大修道院もなく、偉大な大学もパブリック・スクールもない。文学もなく、小説もなく、美術館もなく、絵画もない」と嘆いた米国は、しかしそれからのち〈アメリカン・シーン〉という固有の文化の土壌を広げていった。
〈この国において我々は文化としての芸術を必要としていない。すなわち洗練された優雅なパフォーマンスとしての芸術や、詩的なもののための芸術は必要ないのだ。我々が必要としているのは、今日の人々の精神を表現する芸術だ〉(江崎聡子『エドワード・ホッパー作品集』)
ヘンライが1909年に述べたこのことばはすなわち、米国の大衆社会という乾いた土壌に花開いた〈アメリカン・シーン〉、同時代の米国人の〈精神〉の独立宣言である。
喜怒哀楽が抑制された作品
〈「偉大な美術作品は、アーティストの内面生活が外側へと表現されたものであり、そして内面生活とは彼の個人的な世界に対する見方からでてくる。熟練した技術の工夫がどれだけあっても想像力の本質的要素に代わることはできない。抽象画の弱点の一つは、知性による工夫に過ぎないものを想像による概念作用と取り換えようと試みたことである。人間の内面生活は幅広い多様な領域であり、それ自体は色彩や形態やデザインを作り出すことになんら関わろうとしない」〉(青木保『アーノルド・ホッパー 静寂と距離』)
ホッパーがこう書いたのは戦後の1953年である。
画家の内面生活を作品の造形につなげてカンバスの上に〈小さな物語〉を構築してゆく上で、彼は同時代の文学や映像作品に多くのモチーフの手がかりを求めた。反対に彼の絵画が映像作品にモチーフを提供するという、相互作用もそこに探ることができる。
アーネスト・ヘミングウェイの短編小説『殺し屋』に対してホッパーは1927年3月、雑誌『スクリブナー』の編集者にあてた手紙でほぼ手放しの賛辞を送った。
「アメリカ文学の大部分が浸かっているサッカリンのような甘ったるい感傷を我慢して読んできた後では、アメリカの雑誌にこのような本物の作品を見つけたことにすがすがしい思いがする」と。
『殺し屋』の冒頭の書き出しをたどってみよう。
〈ヘンリーの店のドアが開き、ふたりの男が入ってきた。
ふたりはカウンターにすわった。
「何にします?」ジョージが尋ねた。
「さあな」ひとりが言った。「おまえは何が食いたいんだ、アル?
「さあな」アルと呼ばれた男が答えた。「何が食いたいかわからねえ」
外が暗くなり始めていた。〉(西崎憲訳)
ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーらによるハードボイルド小説の原型ともいわれるヘミングウェイの文体は、人物の心理や情景の説明を極力排除し、外形的な行動だけを描写することで、人物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
ここではレストランの常客の一人を狙ってやってきた「殺し屋」の二人組の素性が、その台詞や振る舞いなど外形だけの描写によって示される。ホッパーの絵画のなかの登場人物の多くが喜怒哀楽の表情を抑制して、一つの場面を支えるマヌカンのようなたたずまいを示していることと、それはどこかで通底する描写であろう。