暗黒小説の旗手のスティーヴン・キングが書いた『音楽室』がモチーフとしているのは、ホッパーの『ニューヨークの部屋』(1932年)という作品である。
自宅の《音楽室》と呼んでいる部屋で、夫婦がテーブルをはさんで座っている。ベストにネクタイ姿の夫はソファに浅くかけて新聞を読んでおり、その向かい側で同じ方向を向いた妻はピアノの鍵盤に指を触れている。二人の視線は交わることがない。
〈かつてふたりが結婚したころ、エンダビー商会はたしかに存在していた。しかし二年前、この恐慌が―ジャーナル・アメリカン紙が”大恐慌”と呼ぶようになった不況が―エンダビー商会の息の根をとめた。いまふたりは、新しい事業をすすめていた〉(白石朗訳)
ニューヨーク三番街、ブラウンストーン作りの高級アパートメントの三階は寝静まってめったに物音は聞こえないが、さきほど夫妻の背後のクローゼットから「どすん」という音が響いた。そのなかで、拉致された取引先の男が小切手にサインさせられたあと、拘束されたまま空腹にのたうつ音である。
恐慌下でエンダビー夫妻がはじめた「新しい事業」の賓客はこれで7人目である。命が尽きた客人を運び出してニュージャージーの広大な松林に運ぶため、用意した小型トラックはガソリンを満たして窓の下の駐車場に待機している。
〈そこでエンダビー夫人はピアノ椅子から楽譜をと取りだし、《きっと私は変わるはず》を弾いた。次に《いまは踊りたい気分》と《今宵の君は》をつづけて弾いた。エンダビー氏は拍手をして、最後の曲のアンコールをせがんだ〉
経済大国アメリカの文化的コンプレックス
エドワード・ホッパーが生きたのは20世紀の米国、それもニューヨークやシカゴやロサンゼルスなど、石油と産業資本の巨大化によって消費文明が人々を飲み込んでゆく、大都市の米国が形作られていった時代である。ニューヨークで生まれたホッパーは当初のイラストレーションから油彩画へ転じて、大都市の街角やオフィス、ホテル、アパートメントの一室で人々が暮らす日常の一場面を〈小さな物語〉に見立てて描くようになった。
多くの画面に共通するのは、大都会の室内を取り巻く冷え冷えとした翳りと強い外光との鮮烈な対比、そしてまなざしを交えない登場人物たちの孤独なたたずまいである。そこには1930年代の大恐慌と不況の時代に生きる都市の人々の不安、さらには戦後の冷戦期にかけて米国人がかかえる緊張した日常が作品の〈空気〉となって映し出されている。
同時代の無名の米国人の一場面を描いたこれらの作品を、英国へ渡った作家のヘンリー・ジェームズは〈アメリカン・シーン〉と呼んで、20世紀の米国絵画を特徴づける写実絵画の大きな流れに位置付けた。ベン・シャーンや日系人画家の国吉康雄らも含めた、この時代の〈アメリカン・シーン〉の画家たちが画布に描くのは、伝統的な共同体から切り離されて大都市に孤立して生きる人々であり、大量消費社会のもとでマスメディアの情報のほかに拠り所を失った〈大衆社会〉の米国の鼓動である。
もっともホッパー自身は、戦後の1960年代にこの〈アメリカン・シーン〉の時代を振り返った折、その枠組みに自身がひとくくりにされることへの反発を強く示した。
〈とても腹が立つのは「アメリカン・シーン」の件だ。ベントン、カリー、そして中西部の画家たちがやったアメリカン・シーンというものを、私は決して試みたことがない。アメリカン・シーンの画家たちはアメリカを風刺したのだと思う。だが、私の対象はいつも自分自身だった。フランスの画家が「フランスの情景」について語ることはなかったし、イングランドの画家が「イングランドの情景」について語ることもなかった‥‥アメリカの特性というものは画家自身の中に存在する。つまり、それを求めて努力することはないのだ〉(W・シュミート『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』光山清子訳)
「アメリカを描いたのではない。私が描いてきたのは同時代の〈私〉なのだ」
ホッパーはそう言いたいのである。
宗主国であった英国はもちろん、欧州や世界各地から新天地を目指してやってきた人々が造った移民国家の米国は、独立からたかだか一世紀余りで世界一の経済大国に発展した。しかし、この国の芸術家たちがその内部に欧州の歴史と伝統に対する根強い文化的なコンプレックスを育ててきたことは、あらためるまでもない。
それは若い日のホッパーが辿ったあゆみを見れば明らかだろう。