一方で、政治参加の権利も保障されているが、この権利が自由に行使されるためには、その人がどの政党、あるいは、どの政治家を支持しているかが秘匿できなければならない。憲法が投票の秘密を保障し、公職選挙法が無記名投票を定めている理由もそこにある。
選挙における投票は政治参加の根幹であるが、政治団体への寄附、パーティー券の購入も、政治参加という意味では投票と同じである。ある政党、あるいは、ある議員の政治資金パーティー券を購入した場合に、購入者の氏名が収支報告書に記載され、それが後日公表されるということは、購入者がどの政党を、あるいは、どの議員を支持しているかが事後的に公にされるということであり、明らかに、沈黙の権利、政治参加の権利と抵触するおそれがある。
他方、規正法が主な対象としている民間からの政治資金に透明性が要求されるのは、汚職や不当な癒着などの政治腐敗を防止するためであり、そのために必要な限度においては、沈黙の権利、政治参加の権利が一定程度制限されてもやむを得ないと考えられているのである。
いずれにしても、どの範囲から氏名を公表するかの議論は、民主主義社会における根本的な権利の制限に繋がるものであることを十分に自覚しつつ慎重に行われなければならない。透明性の拡大はすべて善だとする一瀉千里の議論は民主主義社会には適さない。
派閥解消は政党を全体主義化しかねない
最後に派閥解消に触れたい。一連の不記載事犯は、遵法精神の欠如がもたらしたものであり、派閥があったから遵法精神が欠如したわけでもなく、派閥が解消されたから遵法精神が回復するというわけでもない。
確かに、今回の派閥の政治団体から各議員の政治団体への政治資金の戻しは、派閥の存在を前提としているが、政治資金の戻し自体は違法ではない。論理的に考えれば、今回の一連の不記載事犯と派閥の存否は全く関係がない。
にもかかわらず、自民党内は派閥の解消に向かって進んでおり、大方の世論もそれを是としているように見える。しかし、派閥が完全に解消されたら、政治資金も公認権も人事権もすべて独占した執行部が自民党議員を支配することになり、自民党の統治原理も大きく変わるだろう。
政権党の統治原理は、国の統治にも影響を与える。党内民主主義を認めない全体主義的政党が国を統治すれば、その統治も全体主義的色彩を帯びざるを得ない。政権党に党内民主主義が確立されていなければ、わが国の代議制民主政治が健全に発展することは難しい。
派閥には、その党内民主主義の基盤として機能するという面もあった。今後、派閥に代わる党内民主主義の拠り所が生まれるかどうかが、わが国の代議制民主主義が健全に発展するかどうかを左右するだろう。
民主主義社会においては、国民が議員を批判したり、議員に不信感や怒りを抱いたりするのは当然のことだ。しかし、国民が余りにその不信感や怒りの激情に囚われてしまうと、自分たちが進もうとする道の先にポピュリズムや全体主義が待っていても、そのことに気付けなくなる。
今一度、代議制民主主義は、国民の熟慮と議員へ信頼の上に成り立つものであることを心に銘記したい。各議員は、自ら身を律して国民の信頼を得るべき重い義務を負っていることを自覚すべきである。