長谷部も認めるように、この時期の日本代表には長らく岡田監督からキャプテンを任された中澤佑二をはじめ、田中マルクス闘莉王など、年齢的にもキャラクター的にもリーダーシップに溢れる選手が多かったことも、長谷部がそうした面で目立たなかった大きな理由の1つかもしれない。
それでも長谷部を選手として逞しくしたのが、浦和から海を渡り、ドイツのブンデスリーガでの挑戦をスタートしたことだった。最初の移籍先となったヴォルフスブルクで徐々に信頼を掴むとと、2シーズン目には大久保嘉人とともに、初めてリーグ優勝を経験する。しかし、当初は契約が終わったら早く帰国したいと考えていたという。
引退会見において長谷部は「慣れって怖いですよね」と笑いながら、そうした状況から現地の生活環境に慣れていったことなど、適応能力こそがプロのキャリアにおいて強みになっていたことを明かす。
キャプテンとして何をすれば良いのか
そこから考えると、オンザピッチとオフザピッチの両面で、異国の厳しい環境に適応する能力と、代表キャプテンとして存在を確立させていったことは大きく関係しているように思う。代表に話を戻すと、すでに”欧州組”の一人として10年の南アフリカW杯を目指していた長谷部は大会が目前に迫った状況で、岡田監督から中澤佑二に代わるゲームキャプテンに指名された。
日本代表は東アジアサッカー選手権で韓国に1−3と敗れるなど、チームの流れは決して良くなかった。そこから流れを帰るために、岡田監督が取った苦肉の策の1つがキャプテン変更だったのだ。
チームキャプテンは最年長のキーパー川口能活だったが、試合でキャプテンマークを任された長谷部は最初、何をどうして良いか分からなかったという。現場での記憶としては、とにかく手を叩いて仲間たちを鼓舞しようとする姿が思い出されるが、長谷部個人がどうというより、チームが本番に向けて良い意味での緊張感を持って、大会に入る1つのきっかけになったことはあるかもしれない。
結果的にベスト16という好成績を掴んだ”岡田ジャパン”を支えたが、本当の意味で長谷部が日本代表のキャプテンとして定着するのは”ザックジャパン”で正式なキャプテンに指名されてからだ。
イタリア人監督のもとでスタートしたチームは、南アフリカW杯まで代表チームを支えてきたベテランの多くが外れた代わりに、後に長谷部からキャプテンを継承する吉田麻也などを加えて、平均年齢は25歳に若返った。その中で長谷部はランニングメニューやサーキットトレーニオングでも率先して先頭を走るなど、それまで以上にリーダーシップが目立つようになり、試合前に円陣の中心で仲間を鼓舞する姿も様になってきていた。11年のアジアカップ制覇は長谷部がキャプテンとしての自信を掴む意味でも大きな大会になったはずだ。
「キャプテンというものは日本サッカー界のリーダー的なシンボルとなるイメージもあると思うので。そこに自分の中でちょっと多少、寄せていく部分ももちろんあって。自分のキャラクターも少し変わった部分もあると思うんですけど。それは今振り返ると大きなもので、自分の人生を変えてくれたと思っている」