2024年7月21日(日)

絵画のヒストリア

2024年6月2日

 メディチ家の若い当主兄弟を襲ったテロ事件に、ただちにフィレンツェ政庁は非常事態を知らせる鐘をヴェッキオ宮殿や広場に打ち鳴らし、軍隊が召集された。犯人のフランシスコ・パッツィは犯行後、パッツィ家の宮殿に舞い戻ったところを、フィレンツェ市民軍に捕らえられた。パッツィ家の一派に対するメディチ家の凄絶な報復劇がはじまった。

 陰謀に加担したピサのサルヴィアーティ大司教はとらえられて懺悔の時間を与えられたが、パッツィともどもその場で首つりの刑に処された。パッツィ家が仕組んだ惨劇の「囮役」となったリアーリオは教皇シクストゥス4世の甥で、最年少の枢機卿であったが、阿鼻叫喚の大聖堂の参列者の中に逃げ込んでとらえられ、宮殿の牢獄へ送られた。

 生き残ったロレンツォは宮殿に戻って、集まった群衆に無事を伝えた。逃亡犯の捜索とともに、手早く着手したのは、事件を記録することである。

 まず彫刻家のアンドレーア・ヴェロッキオに依頼して、犠牲となった弟ジュリアーニの等身大の胸像を作らせた。のちにこれはフィレンツェの各地の教会に飾られた。ロレンツォが支援した画家のレオナルド・ダ・ヴィンチは、事件の下手人でコンスタンティノープルに逃亡していたベルナルド・バンディーニが捕らえられて戻されると、フィレンツェで公開された絞首刑の場面の生々しいスケッチに残している。

 「パッツィ家の陰謀」に対してフィレンツェの民衆が抱いた憤りは当時の画家たちの格好の画題であった。ルネサンスの華と呼ぶべき優雅な『プリマヴェーラ』(春)を描いたボッティチェッリも、その傍らでフランチェスコの処刑の生々しい情景を描いている。

サンドロ・ボッティチェッリ「プリマヴェーラ」(春)(1482年頃、テンペラ、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)(サンドロ・ボッティチェッリ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で) 写真を拡大

「陰謀」の影の演出者

 「花の都」のフィレンツェの大聖堂でミサのさなか、屋台骨を支えるメディチ家の当主兄弟がテロにあって死傷するという、青天の霹靂のような事件である。イタリアの都市国家のなかでもひときわ繁栄を誇っていたこの都市の〈顔〉が、なぜ狙われたのか。

 そのころローマの教皇シクストゥス4世は、フィレンツェに近いイーモラを買収した。さらに教皇庁の金融部門をそれまで任せていたメディチ家から同じフィレンツェのライバル、パッツィ家に移管した。それが対立を一気に深めた。

 「パッツィ家の陰謀」の背景を浮かび上がらせる一点の名画がウフィツィ美術館にある。ピエロ・デッラ・フランチェスカの『フェデリーコの肖像』である。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「フェデリーコの肖像」(『ウルビーノ公爵夫妻の肖像』より、1407-57年頃、板・油彩、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)(ピエロ・デラ・フランチェスカ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で) 写真を拡大

 深紅の帽子と衣服で身を固めた屈強そうな像主を、横顔で描いた肖像画である。モデルのウルビーノ公、フェデリーコ・デ・モンテフェルトロはそのころ都市国家の傭兵隊長として私兵を動かし、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、さらにローマの教皇領でも武勲をあげた。フェレンツェにとってもながらく「上得意」の傭兵隊長だったはずである。

 左側を向いた横顔が生涯を通した彼の肖像となった理由は、1450年に28歳のフェデリーコが馬上槍の試合に出場して敵手の槍を右目に受け、失明したためである。それ以来、このフランチェスカが描いた左顔の横顔の肖像が彼の刻印となった。


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