ロレンツォは自らナポリに赴き、影響力を持つナポリ王フェルディナンド1世と会って和平への手がかりを探った。ここで仲介役となったのが「パッツィ家の陰謀」の加担者でもあったウルビーノの傭兵隊長、フェデリーコである。ロレンツォはこうして、教皇庁を巻き込んだイタリアの分裂抗争からようやく逃れた。フィレンツェは永らえたのである。
〈フィレンツェ人はロレンツォ・デ・メディチが死ぬ1492年までは、最大の幸福の中で過ごした。なぜなら、ロレンツォは彼自身の思慮と彼自身の権威によって、イタリア内の戦いを芽のうち摘み取ることに成功したからである〉(斎藤寛海訳)
マキアヴェッリは『フィレンツェ史』にそう記している。
1492年に60歳で逝くロレンツォは境涯、若い日に自身を見舞った「パッツィ家の陰謀」にフェデリーコがかかわっていたことを、どこまで認識していたのか。謎である。
抜き差しならぬ「美の復讐」
『プリマヴェーラ』(春)や『ヴィーナスの誕生』などでルネサンスを代表する画家となるサンドロ・ボッティチェッリは、フィレンツェの大聖堂で起きたメディチ兄弟殺傷事件から3カ月余りたった1478年の7月、パッツィ家側の犯人と共犯者全員の絵をヴェッキオ宮殿の壁に描き、報酬としてフィレンツェの政庁から50フロリンを受け取った。くわえて、処刑されて窓から吊るされた犯人らのスケッチを等身大のフレスコ画にして公開した。メディチ家の手厚い保護の下に生きてきた画家からすれば、それは当然の仕事であった。
しかし、教皇シクストゥス4世は犯行にくわわった聖職者のピサ大司教、フランチェスコ・サルヴィアーティを描いた処刑図を「異端的」として、宮殿の壁から撤去することを命じている。
1481年に教皇が正式に赦罪を発表すると、ほどなく教皇庁は建築の途上にあったヴァチカンのシスティ-ナ礼拝堂の内部を飾る壁画の制作者に、同じフィレンツェの二人の画家とともにボッティチェッリを指名して依頼する。2年にわたってフィレンツェを破門してきた教皇がメディチ家に向けた〈和解〉へのサインであった。
半年以上にわたってボッティチェッリはローマに滞在し、礼拝堂の壁を飾る16枚のフレスコ画のうち3枚を描いた。モーセとキリストの生涯が主題だったが、画家はここでも教皇シクストゥス4世の巨大な権力に対する都市国家フィレンツェの抵抗を、ささやかに画面の上に仕掛けている。
『コラの懲罰』では、神聖な権威に抵抗する者への警告が主題とされたが、ボッティチェッリは背景の停泊する船に小さくフィレンツェの旗を描き込んだ。このため教皇シクストゥス4世は画家に対し、この絵の画料の支払いを拒んだという。
ボッティチェッリの生涯の代表作『プリマヴェーラ』(春)は1477年から78年にかけて、ある婚礼への記念に描かれたと伝えられている。
咲き誇る花の下に集った、爛漫の季節をたたえるような8人の男女の優美な群像は、新しい学芸と生活の様式が広がるルネサンス盛期の華やぎを伝える。一見何ひとつ政治的な寓意などを読みとれないこの美しい絵にも、都市国家フィレンツェが置かれた傾き行くルネサンスの時代が反映されている。
〈《春》では不滅の秘蔵っ子である妊娠中のフローラは、フロレンティア(フィレンツェ)とフィオレッタの両方の寓意なのだ。彼女はフィレンツェの街であり、希望と未来を予言としてはらんでいる。しかも亡きジュリアーノの最後の愛人、つまりジューリオ・デ・メディチの母親(フィオレッタ)を表していて、バッツィ家が子供の父親を殺したのだということを忘れない〉(マルチェロ・シモネッタ 前掲書)
ロレンツィオ・メディチはこんな言葉を残した。
「君主が行なうことは大衆もすぐに行う
彼らの目は常に君主に注がれているのだから」
〈パッツィ家の陰謀〉で暗殺された弟のジュリアーノ・デ・メディチの愛人、フィオレッタ・ゴリーニには、事件の数日前に産んだ遺児ジューリオがいた。ロレンツォの甥にあたるこの少年はメディチ家の養子として育ち、枢機卿を経て教皇クレメンス7世となった。
かつてシクストゥス4世が造ったシスティーナ礼拝堂の祭壇画の制作に、教皇クレメンス7世はフィレンツェの若い彫刻家、ミケランジェロを起用し、そこに『最後の審判』が描かれた。それまであったペルジーノの『聖母被昇天』には時の教皇シクストゥス4世の姿が描き込まれていたことから、このミケランジェロによる祭壇画の更新はメディチ家が果たした「美の復讐」であった。