2024年12月2日(月)

絵画のヒストリア

2024年7月14日

 ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロの『メヌエット(カーニバルの光景)』は、鮮やかな黄色のデコルテで着飾った若い女性を中心に、黒いアイマスクや仮面で装った男女が入り乱れて踊るヴェネツィアのカーニバルの一場面を描いている。

ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ『メヌエット』(カーニバルの光景) 油彩・カンバス、1754年、パリ・ルーヴル美術館蔵(ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 いまや真冬の名物となったこのお祭りは、ヴェネツィアが古都アクイレイアとの戦いに勝った1162年にはじまり、春先までの一定期間に限って人々は思い思いの衣装に仮面をつけて振る舞うことが許された。各地から集まった人々が身分や階級を超えて匿名の演者になり、束の間の熱狂に身を委ねる空間は、東方との交易で富を集めた千年の海の都の華やかな遺産である。

 1786年9月28日、乗合船でブレンダ川を下ってきたドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガンク・フォン・ゲーテは、初めてヴェネツィアの地を踏んだ。37歳、『若きウェルテルの悩み』で一世を風靡した作家はワイマール公国の法律顧問や廷臣の仕事が重荷となり、かたわらでかかえた人妻のシャルロッテとの恋が行き詰まっていた。

ヨハン・ハインリッヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン 「ローマ近郊におけるゲーテの肖像」((1786-1787、フランクフルト・ゲーテ博物館蔵) (ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン, Public domain, via Wikimedia Commons)

 陽光溢れるイタリアはかねての憧れの地である。幼い頃父親がイタリアの旅から土産に持ち帰った、ヴェネツィアのゴンドラの美しい模型が、南国への夢想をさらに広げた。

 著作の『イタリア紀行』(岩波文庫)は文豪ゲーテが〈眷恋の地〉を巡り、作家としての歩みを変える大きな経験をもたらした長い旅の報告である。

 〈ヴェネツィア人はちょうどヴェネツィアの街が他と比較し得ない独特のものであるように、一種の新奇な人間にならざるを得なかった。さながら蛇のようにうねっている大きな運河は、世界におけるいかなる街路に劣ることはなく、また何物も聖マルコ広場の前の空地に肩を並べ得るものはない〉(相良守峯訳)

 アルプスを越えてヴェローナからヴェネツィアに入った折の印象を、作家はこう記した。

 翌日、ゲーテはホテルを出ると地図を片手に、案内人もないまま市内を歩き回った。『イタリア紀行』では、修道院や教会の建築を批評し、宮殿のヴェロネーゼの名画に感動を隠さない。しかし、この街で作家の好奇心を最も激しく刺激したのは、そこかしこの劇場にかかっている芝居や、街角で人々が思い思いの仮面をつけて演じるカーニバルの光景であった。

 10月14日、聖ルカ劇場で見た仮面即興劇に大きな感興を催した作家は、繰り返し仮面劇を見るために劇場へ足を運んだ。

 街では広場や岸辺で、ゴンドラや宮殿の中で、買い手と売り手、乞食、船乗り、女たち、弁護士と依頼人など、あらゆる人間が声高に語りあい、誓い、叫んでは売り、歌い、罵り、笑う。都市の日常生活があたかも劇場で繰り広げられる芝居の一場面のように、名前や身分を超えた自由な空気に包まれて人々はさんざめく。

 理性と秩序が先立つ故郷のワイマールの北方的な空気のなかに生きてきたゲーテにとって、この街が醸し出す情念のカオスのような眺めの一つひとつが新鮮で心が躍った。

 〈それが晩になると彼らは芝居を見物にでかけ、自分らの昼の生活が人工的に纏められ、面白く粉飾され、お伽話を織りこまれる。私はかの仮面劇ほど自然に演じられる芝居をあまり見たことがない〉

 当時ヴェネツィアには14カ所もの劇場があり、中世から演劇が日常的な都市空間を形作っていた。冬の風物詩である仮面のカーニバルはそこから生まれた野外の祝祭である。欧州の各地から観光に訪れる旅人たちも貴族や商人や職人たちに混じってその群れに加わり、街角の舞台の役者となった。

 ティエポロが『メヌエット』を描いたのは、ゲーテがヴェネツィアを訪れた頃より少し前の18世紀の半ばである。画面では仮面と化粧と衣裳で身分を隠した匿名の人々が、あたかも劇場の舞台のようにそれぞれの配役の下で歌い、踊り、演じている。


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