1786年10月14日にヴェネツィアを後にしてローマとナポリへ旅の歩みをすすめたあと、87年の4月にゲーテは〈カリオストロ〉の足跡を探るためにその故郷であるシチリアのパレルモを訪れ、別人を装って生家で母親との面会を果たした。その行動はほとんど「演劇的」な奇行と呼んでも差し支えあるまい。
〈私が滞在中、始終公開の食卓で、カリオストロのことを、その素性や運命についていろいろ語られるのを聞いた。パレルモ市民の一致した意見では、この町生まれのジュゼッペ・バルサモなる者がさまざまな悪行を働いたかどで芬々たる悪評の的となり、町から叩き出されたことがあるということである。‥‥昔この男に会ったことの或る人も何人かいて、彼らの言うところによると、彼の姿格好はドイツでは誰知らぬ者とてはなく、パレルモにも送られてきているあの銅版画の肖像と瓜二つだということだ〉
カリオストロが実はこの街に生まれたバルサモという悪党であると知って、ゲーテは英国人の友人、ウィルトンを名乗ってわざわざその生家に暮らす母と妹を訪ねあてた。
息子の消息を訊ねる母にゲーテは「彼はいま、釈放されて英国で不自由なく暮らしていますよ」と安心させ、手紙を言付かって去る。作家的好奇心の発露としても、あまりにも荒唐無稽な振る舞いではあるが、それは当時の欧州社会でこの〈山師〉が巻き起こしていた醜聞の霊気(アウラ)の大きさを伝える挿話とも読める。
印象に残り、語り継がれる詐欺の手口
表立ったエピソードをたどると、欧州社会で〈カリオストロ〉が暗躍するのは1780年のストラスブールにはじまり、85年に先に触れたパリで王妃マリー・アントワネットの首飾り詐欺事件の首謀者として登場するまでのたかだか5年間に過ぎない。
この間「錬金術師」や「医師」を名乗って欧州の各都市に出没したこの〈山師〉は、王室や貴族たちの社交の場で〈魔術〉や〈奇跡〉を演じて喝采を浴びたが、やがて荒唐無稽な言説で世間を欺く「詐欺師」や「ペテン師」として、舞台から引きずりおろされた。こうした毀誉褒貶の振幅の大きさも、人々の好奇心をかきたてた要因であったろう。
ゲーテが英国人の友人を装って故郷のパレルモの生家を訪れ、母親と面会していたころ、当の本人のカリオストロは首飾り詐欺事件で投獄されたバスティーユ監獄から釈放されて渡ったロンドンから、再び大陸へ戻ってスイスのバーゼルに身を潜めていた。
それまでの間に〈カリオストロ〉が欧州各地で巻き起こしたスキャンダルの数々は、確かに〈伝説〉と呼ぶほどに華々しい。
シチリアのパレルモの貧しい家庭に生まれたジュゼッペ・バルサモは窃盗や詐欺、女衒などを常習として修道院から追放されるが、錬金術師に弟子入りして「秘術」を身につける。かたわらフリーメーソンの分派を掲げて〈カリオストロ伯爵〉を名乗り、妻となるロレンツァ・フェリチアーニとともに欧州各地の社交界を渡り歩いた。
ミタウのクアラント公国、エカテリーナ2世のロシア宮廷、ポーランドのポニンスキ大公、ストラスブールのロアン枢機卿のサロン……。カリオストロと妻のロレンツァは欧州各地の宮廷や貴族たちのあいだを縦横無尽にめぐり、奇想天外な〈秘術〉でかれらを手玉に取って詐欺を重ねた。
いかさまの富くじやただの水を使った若返りの美顔術、小さな真珠を大きくして再生させる秘法など、〈奇跡〉を演じる手口はいかにも怪しげで荒唐無稽、騙される人もいれば騙されない人もいたが、そこにはどこかに〈愉快犯〉の気配があった。
ロシアのペテルブルクではエカテリーナ女王が、のちにカリオストロの〈奇跡〉の秘術を主題にして喜劇『詐欺師』を書いて上演し、喝采を浴びている。ばかばかしい〈詐欺〉の「秘術」がむしろ微笑ましく語り伝えられる、ペテン師の挿話である。
欧州ではフランス革命のうねりが旧体制を揺るがし、それまで支配してきたカトリック社会の秩序に代わって、〈山師〉が跋扈する混沌と無秩序の気配が広がっていた。
価値がびん乱する時代であればこそ、人々はこの怪しくも得体のしれない詐欺師夫婦の〈奇跡〉の口上に奇妙な解放感を見出し、あえてそれに騙されたがっていたのかもしれない。
イタリアを旅していたゲーテがパレルモまで足を伸ばし、この〈カリオストロ伯爵〉の生家を訪ねて母親と面会を果たしたのは1785年の2月である。