司法精神医学的には、違和感を覚える判決
話を京アニ事件に戻すと、国民感情からすればもっともな判決であろう。ただし、誤解を恐れず、精神鑑定医の立場からすれば、違和感を覚える判決となる。
心神喪失(責任無能力)の判断基準は、国、時代によって小さな揺れがあるので、「ワグナーが心神喪失だから、青葉被告も同じ」とは言い切れない。それでも、「妄想性障害」と診断して、かつ、「完全責任能力」とする判断は道理が立たないように感じる。少なくとも心神耗弱(限定責任能力)程度の減弱は認定される必要があるのではないか。
精神医学的には、「妄想性障害」と「妄想性パーソナリティ障害」とは根本的に異なる。前者は「病気」であり、後者は「ひとがらの問題」である。精神の「病気」は、刑法39条「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」の対象になるが、「ひとがらの問題」はならない。
この点を考慮すれば、裁判所が、「妄想性パーソナリティ障害=ひとがらの問題」診断を採用して、その結果、「完全責任能力」としたのならまだしもわかるが、京都地裁は、あえて「妄想性障害=病気」の診断を採用し、それにもかかわらず「完全責任能力」と主張した。「単なる『ひとがらの問題』ではない。確かに病気だ。しかし、減免に値しない」と主張したように見える。ここに、精神医学と司法との視点の違いがある。
判決では「被告人は妄想性障害の影響により、京アニが自分自身の作品を盗用していると考えるようになったが、抗議をするなどの手段を選択することなく、京アニを攻撃しようと考え、大量殺人の実行に及んだ」として、「これらの行動が悪だという認識を示しており、善悪の判断もついていた」と判断している。
つまり、犯行の動機については妄想性障害の影響があったものの、火を付けて大量の人間を殺害することの善悪の判断はでき、殺人以外の選択もできたことから、犯行自体については妄想性障害への影響はみられない、ということだ。
人が病気であるかどうかを判断する精神科医と、過去に起きた出来事の経緯に精神疾患の影響があったかを判断する司法。方向性および見方の乖離が出た判決と言える。
鑑定人は第一人者だった
公判鑑定を行ったのは、岡田幸之東京医科歯科大学教授である。吉益脩夫、中田修、小田晋と連なる本邦司法精神医学の保守本流。司法精神医学会、犯罪学会等で重責を担い、法曹の信頼も厚い。
裁判所や検察庁が精神医学についての勉強会を開くとき、講師として第一に指名されるのが岡田教授である。責任能力判断に関わる裁判官、検察官のなかで、岡田教授の講演を聴いたことも、論文を読んだこともない人は、いない。いわば、法曹にとっての精神医学の教師ともいうべき人物である。この岡田教授の鑑定でも裁判所との〝溝〟は埋められなかった。
今年の5月に日本司法精神医学会が開かれた。フロアの雑談では、京アニ事件の判決が話題になった。学会員たちは、無力感でうちひしがれていたのが印象的であった。
岡田教授は、精神鑑定を誰よりも明晰に語る、まさに第一人者である。それでも見解は認められなかった。いったい、誰がどういう鑑定をすれば、裁判所に採用されるのか。