市長となった後のあの「南京発言」は、思いつきや、口が滑った類のことではなく、「南京と姉妹都市でもある名古屋の市長になったら、南京事件のことはやらにゃいかんと思っていた」というくらい、明確な意図、意思をもってした発言であったのだ。その河村氏が、南京入城当時を知る手掛かりとして注目したものに、南京にいた元日本兵の日記がある。その一つ、梶谷元軍曹という人の日記には南京入城式の直後の様子が次のように書かれてある。
「(一時間あまりで)敗残兵二千名の射殺されたり」「誠に此の世の地獄」。2000名という人数は大きい。この世の地獄と見えたのも無理もない。が、撃ち殺されたのが、「敗残兵」であったなら、それは戦闘行為であって、一般人の「虐殺」にはならない。
「便衣兵」という中国独特の戦法
国際紛争を解決する手段の一つである戦争には厳然としたルールがある。戦争とは、兵士と兵士の殺し合いであって、民間人を殺してはならない。これが戦争の最も基本的なルール、犯せば罪に問われる。だから、兵士はきちんと制服を身につけるなどして、遠くからでも兵士とわかるようにしなければならず、市民に化けて攻撃するというのは重大な「ルール違反」なのだ。このことは日中戦争当時から同じである。
日記には、2000名射殺の際、「十名ほど逃走せり」とも書かれてあった。この逃走者らの話に、のちに尾ひれが付いて、「大虐殺」となった可能性が否定できないが、そうであれば、なぜ、「敗残兵」の射殺が「虐殺」となったか、が問題である。考えられるのは、その敗残兵らが民間人の服装をしていたということである。
今日、このことは多くの識者が指摘しているが、当時の中国戦線では、「便衣兵」と呼ばれる、通常の服装をした兵士が数多くいた。これに関する元日本兵の証言も多く、たとえば掃討戦の最中、一般市民の姿をした人を見かけたので声をかけると撃ってきたので反撃した、というようなものだ。南京を含む当時の中国では、ゲリラ化した国民党の兵士がそこここにいて、「兵士」と「民間人」の境がとても曖昧になっていた。このことが、「大虐殺」話に結びついた、あるいは結びつけ易かったということは十分考えられる。