2024年12月22日(日)

勝負の分かれ目

2024年10月8日

 関西の大手私鉄だった阪急と阪神の経営統合は、2006年に遡る。前年9月の村上ファンドによる阪神電鉄の大量保有報告書で、同ファンドが阪神電鉄の筆頭株主に躍り出たことが判明。同ファンドはその後も保有株を増やして影響力を高めると、子会社である球団の株式上場などを電鉄側に迫った。

 03年にチームを18年ぶりのリーグ優勝へ導いた星野仙一シニア・ディレクターが、村上ファンドに批判的な態度を見せ、ファンも猛反発。阪急が救済する形で傘下に収めた。一方、阪急サイドは、阪神電鉄やファンの思いをくみ取り、球団経営は阪神側に委ねる姿勢を取ってきた。

 事態が動いたのが2年前だ。当時の矢野燿大監督が開幕前に22年シーズン限りでの退任を表明し、翌年の監督交代は必至の状態となった。阪神側は2軍監督だった平田勝男・現ヘッドコーチの昇格でまとまったが、阪急阪神HDの角和夫会長が受け入れず、岡田氏を推した。

「勝てる監督」岡田彰布が見せたもの

 岡田氏は04年から08年まで阪神で監督を務め、05年にリーグ優勝を達成。その後はオリックスの監督を経た後、評論家としてチームを見つめてきた。常に現場意識を失わず、戦況を見極める眼力や選手起用についても歯に衣着せぬ語り口で持論を展開し、角会長には「勝てる監督」として魅力的に映った。その結果の監督復帰と2年契約だった。

 岡田氏は監督に就任すると、レギュラー野手を固定するなど、選手たちの適性を見抜いた采配や起用で底上げを図り、就任1年目からリーグ優勝、日本一へと導いた。優勝という言葉を「アレ」と言い換えるなど、独特の言い回しはファンにウケた。

 スポーツ紙各紙が試合後の囲み取材の内容を詳細に伝えるなど、関西では大きな影響力を持った。一方で、66歳という年齢からも長く監督は務められないことは覚悟し、自身がコーチ、2軍監督など現場を経験して1軍監督へ昇格した経験から、昨季からは球団OBの今岡真訪氏をコーチとして招聘するなど後任の育成にも着手していた。

 早稲田大学からドラフト会議では当時最多となる6球団競合の末に、“相思相愛”の阪神に入団。中軸を担って1985年の日本一に貢献し、阪神の監督としても歴代最多522勝をマークした。猛虎の生え抜きとしてチーム愛の強さが際立つが、特に第2次政権では、選手やコーチのミスを厳しく断罪する直言が、時代に合わないと批判されることも目立つようになっていた。

 岡田監督は、現役時代に阪神の暗黒時代を経験しているが、勝負に対しては自らも厳しい姿勢で向き合う。第1次政権だった08年も巨人に最大13ゲーム差を逆転されると、リーグ2位で6年目の続投が内定していたにもかかわらず、引責辞任した。報道によれば、今回も9月29日にV逸が決まった時点で、球団幹部と協議して退任が決まったと伝えられる。


新着記事

»もっと見る