昨今、物流の「2024年問題」が注目を集めた。だが、そもそも「モノが運べない」という物流危機がなぜ起きたのか。
原因として「運賃の低さ」「日本独自の流通慣行」など、様々な点を指摘することは可能だ。ただ、そのような議論を重ねても、表面的な事実をなぞるだけで、本質的な問題点の改善にはつながらないのではないか。なぜなら、これらを含めて多くの要因は、「日本社会における物流軽視」の思想に帰着するように思えてならないからだ。
物流は、多くの市民にとって「無料で享受できるサービス」でしかない。また、物流を「コストカットの源泉」としての価値しか見出していない企業も少なくない。このような姿勢では、物流を高度化するインセンティブは生じようがない。どのような経路をたどるにせよ、いずれ行き詰まるのは当然とも言えるだろう。
物流危機を乗り越えるために必要なのは、対症療法ではなく、 日本社会全体に根付いているこの思想を根本から転換することが必要だと思う。現代社会は高度な物流によって支えられており、物流の途絶は社会活動の停止を意味する。そのため、災害などの緊急時には社会を挙げて物流の事業継続を支援する必要がある──。
当然のことに思えるが、いざ緊急時になると、物流への支援がおざなりになってしまうケースが少なくない。近年では、コロナ禍における物流の扱いが、まさにそうだった。
欧米主要国を対象に筆者が調査したところ、エッセンシャルワーカーであるトラックドライバーに対し、多くの国が物流への手厚い支援を提供した。「マスクを優先的に配布する」「ワクチンの優先接種を行う」といった施策はもちろん、「ハザード・ペイ」と呼ばれる臨時給付金を支払った国・地域もあった。日常生活に必要不可欠な仕事であることが社会全体で共有されている証左だ。
これに対し日本では、物流への支援は皆無と言ってもよい状況であった。例えば「マスクの優先配布」といった施策を取り上げてみても、一部地域のトラック協会が自主的に行ったような事例があるのみで、最後まで公的支援メニューとして議論の俎上に載ることがなかった。
これまで大規模災害時に食料供給の途絶といった「兵站崩壊」が防がれてきたのは、物流企業の現場力と従業員の職業倫理のおかげであり、社会からの支援は手薄だったが、コロナ禍でも変わらなかった。
日本における物流軽視の例として、旧日本軍の「兵站軽視」がよく挙げられるが、災害時における「兵站軽視」は、物流軽視の思想が、日本社会のいわばミクロレベルに根付いていることの現れだとも思える。