民主主義とは程遠い
日本の学校教育
このように日本は「民主主義国」という看板を掲げながらも、内実は空洞化しています。和菓子のもなかで例えるならば、「皮」は民主主義でも、中身がないのです。私たちはこの現実を受け止め、これから日本にどのようにして民主主義を根付かせ、実践していくのか、しっかりと考えていかなければなりません。
それにしても、どうしてこんなことになっているのでしょうか。私は大きく二つの要因があると考えています。それは「学校教育」と「社会における対話の喪失」です。
まず、学校教育について考えてみましょう。先ほどの話にも関係しますが、日本人は民主主義国の中で異常なほど、政治・社会問題に疎くなる教育を受けています。政治が学校教育を通じて、意図的に仕向けているとも考えられ「社会のことは知らなくていい。一握りのエリートが決めること」という価値観を押し付けているようにも見えます。これではまるで、国定教科書として統制されていた軍国主義時代の教育そのもののようです。
こう言うと、「社会科の授業で勉強する機会は与えられていた」との反論が聞こえてきそうです。
しかし、それらはあくまでも机上の知識です。私が問題視しているのは、政治・社会問題について意見がなく、関心がないまま大人になる人があまりにも多いことなのです。
事実、私は立派な大人たちからしばしばこんな言葉を聞きます。
「自分の思いや意見を言いたいと思っても、どうやって言葉にしていいかがわかりません」
これには、子どもの頃から民主主義とは程遠い教育を受けてきたことが遠因にあると私は見ています。
「難を避けるには沈黙することがいい」「発言すると査定の材料になる」「生意気な人間」だと思われる。まさに「沈黙は金」という考えが、学校教育の時代から染みついているのです。
また、学校では「〇〇してはいけない」という決まりも多く、社会に出れば今度はマニュアル通りにすることが求められます。お店では、たばこを購入する白髪の老人にさえ、年齢確認を行い、周囲の人が思わず笑っている有り様です。
このような状況から、私は、学校の授業でたくさんの語彙は習ってきたはずなのに、その語彙を使いこなす訓練ができていないのではないかと思うのです。
読者の皆様も振り返ってみてください。学校の中で、自分の思いや意見を正々堂々と述べていたでしょうか。先生の言うことを唯々諾々と受け入れていただけではなかったでしょうか。
「意見がないことは、民主主義国では、『私はバカです』ということ」
あるドイツ人に教えられたことです。激しい言葉ですが、正鵠を射ていると思います。
私は1980年代から90年代にかけて、ベルリン自由大学とウィーン大学の客員教授を務め、その経験をもとに日本がバブル絶頂だった89年9月、『豊かさとは何か』(岩波新書)という本を上梓しました。
その頃、すでに日本人はドイツ人からあまり尊敬されていませんでした。事実、私はあるドイツ人にはっきりと、こう言われました。