2025年3月29日(土)

新しい〝付加価値〟最前線

2025年3月22日

「いただきます」と「ごちそうさま」

 自分が生きるために、相手の命を奪うことに対する感情。それを端的に表す言葉が「いただきます」と「ごちそうさま」だ。

「いただく」は、元々は食材が、神様を含む目上の人からのもらいものだという考えからくる。神社の中心、伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大御神は、内宮に祀られている天照大御神の食事係だ。 日本の神は食べることに重きを置く。

 これが転じて食事の時の挨拶になる。主食の米が八十八と書くのは、八十八の手間がかかっているからと伝えられてきた。肉、魚は、はっきり命をいただく。この食の恵みへの感謝を一言で言い表したのが「いただきます」だ。自然、手も合わせる。

 クリスチャンの食前の祈り、食事できる感謝を一言にしたような言葉だ。最近、PTAより「私は給食費を払っている。誰からもいただいてはいない」と難癖を付けられ、この食事の時の挨拶を中止した学校があるという。私は、どうしてそんな理論がまかり通るのかがわからない。お金は大切だが、世の中はそれだけではないことがわからないのであろうか。

 それはさておき「ごちそうさま」だが、ちそうは漢字で馳走と書く。走り回り世話をすることだ。それが転じていろいろなところから食材を集めた料理を「ごちそう」と呼ぶ様になった。という意味では食事の主催者、家庭の場合は、お母さんへの感謝になる。

実体験はどうだろうか

 私が小学生の頃は、片田舎というべきエリアが多く、あちこちに田んぼ、畑があった。東京でも、山手線の西は、かなり畑だった。昆虫採集が当たり前のその時代、畑の野菜は蝶の幼虫の好物でもあり、いろいろ捕まえた。そんな状態なので、農に興味が出た場合、畑などはすぐ見ることはできたし、一畝借りて野菜を作ってみることもできた。そう言う意味で、農は近かった。

 だが、今は父はサラリーマン。畑は売られ、後にはマンションが建っている。当然、農も遠くなる。それでも、実体験ができないわけではない。自治体は区割りの畑を貸し出しているところも多い。また牧場でも体験させてくれるとこともある。実農だけでなく、料理という手もある。見たこと、食べたことはあっても、実際に触って、切ったりするのは初めてという子も多いは
ずだ。

 この『おいしいまほうのたび きょうのよるごはん』のいいところは、読んで面白いだけでなく、行動に結びつけられることだ。挨拶でき、美味しことに感謝できたら、畑に行かなくても、かなり人生観は変わるはずだ。

 ぜひ、一度、読んでみていただきたい。

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